1880年代の清王朝 フランスにベトナムを奪われる

 1880年代の清王朝は、3つの対外戦争の危機に瀕していた。1つ目は、ロシア帝国中央アジアをめぐり対立していた。2つ目はフランスと東南アジアのベトナムの宗主権をめぐる対立。3つ目は、日本と朝鮮半島の宗主権をめぐる対立であった。ロシアとは、イリ条約で、日本とは天津条約で平和的に解決できたが、フランスとは清仏戦争に発展。敗戦により、ベトナムの宗主権を失った。一方、清王朝内部は、反キリスト教運動が盛んになった。

最期の朝貢国、李氏朝鮮

 90年代、日本と清王朝(中国)は朝鮮半島をめぐり日清戦争が勃発する。80年代の日本と李氏朝鮮はどのような状況下にあったのだろうか。

 80年代の日本は、大日本帝国憲法を制定。近代化の道を歩み始めていた。しかし、第1回帝国議会では、野党の自由党、立憲改進党が過半数をとっていた。予算を通すのも一苦労の状況であった。清王朝は日本が混乱状態と勘違いしていた。

 朝鮮半島は、14世紀から続く李氏朝鮮があった。80年代の李氏朝鮮は内紛状態が続いていた。日本と清王朝は内紛の都度援軍を送っていた。85年の壬午事変の際には天津条約を締結。援軍を送る際は事前通告を行うこととなった。

反キリスト教運動

 このころ清王朝内部では、列強に対する連敗からキリスト教運動(仇教運動)が盛んになる。ちなみに、キリスト教布教の禁止が解けたのは1860年のアロー戦争講和条約(北京条約)からである。

 80年代、西太后が摂政として皇帝の代わりに政治を行っていた。西太后は、漢人官僚の李鴻章らを使って西欧化政策を展開した。これを洋務運動という。

 89年、光緒帝が成人になったことにより、西太后は政治の世界から離れる。しかし、90年代に入ると、日清戦争をめぐり対立する。光緒帝の側近による主戦派と西太后・李鴻章らの反戦派である。

フランスに敗北

 84年ベトナム(東南アジア)の宗主権をめぐり、フランスと戦争。フランスに敗北する。85年天津条約を締結し、清王朝はフランスのベトナム保護国化を容認した。その後フランスは、フランス領インドシナ連邦を成立させた。同じころ、イギリスはミャンマーマレー半島を併合。東南アジアの半島部は、タイを緩衝地帯にし、西側がイギリス領、東側がフランス領となった。当時のフランスは、第三共和政が安定しアフリカや南太平洋に植民地を拡大していた。アフリカでは、チュニジアや今後を保護国化。南太平洋ではタヒチを領有した。

ロシアからウイグルを返還

 81年イリ条約でロシアとの中央アジア国境紛争は解決し、中央アジアのイリ地方は清王朝に帰属した。翌82年清王朝はここに新疆省を設置した。イリ条約を締結した81年アレクサンドル2世が亡くなり、アレクサンドル3世が即位した。その後、ロシアは東欧のオスマン帝国に矛先を向け、ルーマニア王国セルビア王国を建国を支援。ベルリン条約を破棄した。一方で、中央アジアではアフガニスタンに侵攻、イギリス領インドと対立した。余談だが、イリ条約を締結した81年、『罪と罰』で有名なロシアの文豪ドストエフスキーが亡くなっている。

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