1880年代、日本は明治時代。国会が開設されたころである。
このころ、インドはイギリスの植民地であった。このころインドにも議会が成立した。インド国民会議である。また、東南アジアでは第三次ビルマ戦争が勃発した。
90年代のインド
1890年代、ヨーロッパの植民政策は本格化した。中国分割がその一例である。
一方で、インドは飢饉で苦しんでいたが、親英的であった。
ヨーロッパ情勢 アフリカ分割
ビルマルク外交と帝国主義の絶頂期である。70年代不況を受けて、ヨーロッパ各国は植民地の重要性を認識した。一方で、ビスマルク外交のおかげでヨーロッパで大きな戦争は起こらなかった。その象徴が78年のベルリン会議である。70年代不況とヨーロッパの平和が帝国主義に向かった。
84年にベルリン=コンゴ会議が開催。アフリカ分割が本格化した。
イギリスの植民地政策 3C政策
イギリスのアフリカの拠点は2つである。エジプトと南アフリカである。エジプトは、70年代にスエズ運河買収に成功して、植民地経営を始めた。一方、南アフリカは、1810年代のナポレオン戦争の講和会議(ウィーン会議)でオランダから譲りうけた植民地である。
エジプトは、ナポレオン戦争以降、フランスの植民地であった。しかし、このころエジプトで大反乱が発生。フランスは出兵ができず、イギリスの単独出兵になった。その後、イギリスの植民地が確定した。
一方、南アフリカは、1910年代にオランダから譲り受けた植民地である。しかし、内陸部は、まだオランダの植民地であった。80年代、この内陸部で金鉱が発見される。90年代に入ると、この金鉱をめぐり、元オランダ人(ブーア人)と南アフリカ戦争が勃発する。
インドに議会ができる。
70年代、イギリスはインド帝国を成立させた。
80年代に入り、イギリスはインド人の不満を解消するため、議会を設置した。インド国民会議である。インド国民会議はイギリス人のインド総督の諮問機関として発足。インド国民会議、インド人の名士によって構成された。目的は、インド人の知識層の不満を解消するためである。ちなみに日本の帝国議会ものこのころ成立した。
ここで成立したのが、のちに独立運動の柱となるインド国民会議派である。ただ、当時の国民会議派は、自治権は求めるものの親英的な立場をとった。また、古いインドの慣習をすて近代化を求めた。一方で、選ばれたもののほとんどが、ヒンドゥー教徒であったためイスラム教徒の反発もあった。
ビルマ併合(東南アジア)
86年、イギリス領インドは、第三次ビルマ戦争に勝利。ビルマ(ミャンマー)を併合した。
ビルマ(ミャンマー)は、東南アジア半島部の西側に位置する国でイギリス領インドの東隣の国であった(当時、バングラデシュはなくイギリス領インドに属していた)。19世紀のミャンマーはコンバウン朝であった。
コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドを脅威に感じていた。また、19世紀に2回イギリスに敗戦している。また、当時のイギリスの拠点は、インドの北東部のカルカッタである。このカルカッタはビルマのすぐ近くにある。
そのため、コンバウン朝ビルマは援軍を求めた。それがフランスである。フランスは、このころ、清仏戦争に勝利。東南アジアの北東部ベトナムにインドシナ植民地を形成していた。
イギリス領インド帝国は、これを察知し、コンバウン朝ビルマへ侵攻。第3次ビルマ戦争である。コンバウン朝を滅亡させた。このあと、東南アジア半島部をめぐり、イギリスとフランスの攻防が続く。これは、1900年代の英仏協商まで続く。
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