7世紀、日本は聖徳太子や中大兄皇子らが活躍した飛鳥時代であった。
そのころ、ペルシアではササン朝ペルシアが滅亡。イスラム勢力の支配下に入った。
イスラム教は、7世紀初頭に始まった。当初小さな宗教集団であったが、この世紀でオリエントを統一する大帝国になった。
ムハンマド時代
10年 ムハンマド、神の啓示を受ける
ムハンマドは元々メッカ(アラビア)の商人
当時のアラビアは、
戦時下にあるメソポタミア(イラク)の迂回貿易で繁栄していたが
繁栄とともに格差が生じていた。
また、多神教が信仰されていた。
ムハンマドは、メッカで布教を開始。
貧困層を中心に信者を集めた一方、迫害を受けた。
22年 ヒジュラ、ムハンマドはメディナにウンマを建設(イスラム元年)
ムハンマドは、迫害を逃れるため一部の信者を引き連れてメディナ(メッカの北)に移住した。ここでウンマという共同体を建設した。
30年 ムハンマドは、無血のうちにメッカに戻った。
正統カリフ時代
32年 ムハンマド、没
このあと、選挙によって指導者を選んでいった。この指導者は「カリフ」と呼ばれた。そのため、この時代を「正統カリフ時代」と呼ぶ
42年 ニハーヴァンドの戦い
52年 ササン朝ペルシア、 イスラム軍により滅亡
ニハーヴァンドに大敗したササン朝ペルシアは滅亡
ペルシア人はアラブ人の支配下に入った。
それまで、ゾロアスター教を信仰していたペルシア人の大部分は
イスラム教に改宗した。
ウマイヤ朝の成立
61年 イスラム教ウマイヤ朝が成立
61年、4代目カリフ、アリーが暗殺。彼と対立していたシリア提督(ビザンツ帝国戦線の最前線)ムアウィアがウマイヤ朝を成立させた。
スンナ派とシーア派
スンナ派 → ウマイヤ朝を認める
カリフが誰かよりもムハンマドの言行を守ることが大切。
シーア派 → ウマイヤ朝を認めない
(アリーとその子孫のみが正統カリフ)
イスラム教徒の大部分は、スンニ派を信仰した。
しかし、ペルシア人の大部分は、シーア派を信仰した。これはアリーの息子が捕虜となったササン朝ペルシアの王女と結婚したという伝説からといわれている。
この状況は21世紀の現在でも変わっていない。イスラム教徒の大部分はスンニ派を信仰しているが、イランはシーア派を国教としている。サウジアラビア(スンニ派)とイラン(シーア派)の対立もここまでさかのぼることになる。
ウマイヤ朝の政策
ウマイヤ朝の税収は以下の2つである
シズヤ(人頭税) 被征服民(アラブ人以外)にかける人頭税
ハラージュ 被征服民(アラブ人以外)が保有すると地位かける地税
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