前回の復習 1820年代のシリア・パレスチナ
19世紀、シリア・パレスチナを含む中東は、オスマン帝国の支配していた。19世紀前半のオスマン帝国は少数民族の独立運動やロシアの南下政策に悩まされていた。
1830年代のシリア・パレスチナは、エジプト=トルコ戦争の係争地であった。この時期から多くのヨーロッパ商人がシリアに移住するようになった。
1810年代の国際情勢
1810年代、日本は江戸時代。徳川家斉の大御所政治の時代。江戸は、化成バブルに湧いた。浮世絵など江戸の文化はこの時期に形成された。
中国は、清王朝の時代。白蓮教徒の乱やインド産アヘン問題で衰退期に入り始めた。
ヨーロッパは、ナポレオン戦争が終結して、反動政治が行われていた時代。ラテンアメリカの独立運動やギリシャ独立運動で市民革命の勢いがつき始めた。
ロシアとシリア
エルサレムと聖地管理権
エルサレムは、パレスチナにあるキリスト教、ユダヤ教とイスラム教の聖地である。
エルサレムを統治するオスマン帝国は、異教徒に寛容である。キリスト教徒にエルサレムのキリスト教の聖地の管理を認めた。これが聖地管理権である。
ロシアが聖地を管理
聖地管理権は、代々フランス国王が担っていた。しかし、フランス革命で、フランス国王が一時いなくなった。
代わりに、聖地管理を担当したのがロシア帝国である。
ロシア正教会
ただ、ロシアが聖地管理権を持つことは大きな問題があった。それは、ロシアのキリスト教の宗派とフランスのキリスト教の宗派が異なるからである。
フランスは、ローマに総本山があるカトリック教会である。一方、ロシアで信仰されている東方正教会(オーソドックス)は、ローマ教会と対立していたコンスタンティヌス教会を中心に発展していた。
この対立が、53年のクリミア戦争につながる。
オスマン帝国とウィーン体制
ウィーン体制
14年、ナポレオン皇帝が諸国民戦争に敗北。オーストリア宰相のメッテルニヒ主催でウィーンで会議開催。ナポレオン戦争後の世界について話し合った。
聖地管理権に関与した。ロシア、オスマン帝国とローマ教会が参加した。
翌15年にまとめられたのが、ウィーン議定書であり、ウィーン議定書で構築された体制がウィーン体制である。
神聖同盟に参加せず
ウィーン体制は、2つの同盟で構成された。イギリスが主導した四国同盟と、ロシアが主導した神聖同盟である。
神聖同盟には、多くの国が参加した。ただ、宗教の同盟であるのでオスマン帝国は参加しなかった。さらに、聖地管理権問題の関係でローマ教会(カトリック)も、ロシア主導の神聖同盟に参加しなかった。なお、イギリスもこの同盟に参加していない。