前回の復習 16世紀後半のスペイン
16世紀後半のスペインは、フェリペ2世の全盛期である。アジアに多くの拠点を持つポルトガルを併合した。一方で、オランダが独立宣言。八十年戦争の始まりである。
16世紀前半の国際情勢
16世紀前半の日本は、室町時代末期の戦国時代である。
ヨーロッパは大航海時代。日本に鉄砲やカトリック(キリスト教)が伝わったのもこの時代である。
スペイン国王カルロス1世
16世紀に入ると、ハプスブルグ家のカルロス1世がスペイン国王になった。ハプスブルグ家は、オーストリアに拠点をもつ家系である。カルロス1世はオランダ(ネーデルラント)で育った。そして、カルロス1世は神聖ローマ皇帝になった。
当時のスペインは、南イタリアに領土を持ち、15世紀末にコロンブスがアメリカ大陸を発見。南北アメリカ大陸へ進出を開始した。カルロス1世の誕生で、ドイツ(神聖ローマ帝国)、オランダ(ネーデルラント)、南イタリア、スペインと南北アメリカに広がる大帝国が成立した。
ポトシ銀山
ポトシ銀山の発見
スペインは、南アメリカのインカ帝国を滅ぼすと、ペルー副王を置き、南アメリカを統治させた。
45年、ペルー副王領のボリビアで銀鉱山が発見された。ポトシ銀山である。
銀で世界が1つに
ポトシ銀山の銀は、本国スペインに持ち帰られたものもあるが、多くは中国(明王朝)へ運ばれた。明王朝では、銀の流通量が増大。一条鞭法で税金は銀での納付に一本化された。
この時代から国際通貨は銀になった。ちなみに、日本の石見銀山が開発されたのもこの時代である。
商業革命・価格革命
ポトシ銀山の発見は、ヨーロッパにも大きな影響を及ぼした。大量の銀の流入により、銀価格が低下。これにより、農産物を中心にインフレが進んだ。
西ヨーロッパでは、商業の発展で農奴は銀で領主(貴族や騎士)に納付していた。銀価格の低下により、地代は低下。農民は裕福になる一方で、貴族は没落していった。
銀山経営で成功した南ドイツのフッガー家は、銀価格の低下により没落していった。
環太平洋造山帯
ここで、地理の話を入れよう。大陸部は形成された時期で3つの地域に分かれる。古い順に、大陸陸塊、古期造山帯と新期造山帯である。
大陸陸塊は、ほとんど山がない。古期造山帯は、なだらかで丸みを帯びた山が多い。
新期造山帯は、できたばかりの山が多いので、高く険しい山が多い。世界最高峰エベレストも、新期造山帯の一つ、アルプス・ヒマラヤ造山帯に属している。さらに、現在も造山活動がつづいいているので、地震や火山の噴火などがよく発生する。火山が多いので温泉地も多い。
新期造山帯の代表格が、環太平洋造山帯である。太平洋周辺がすべてがこの地域に属する。具体的には、南北アメリカ大陸の西海岸(ロッキー山脈、アンデス山脈)、日本やフィリピン、オーストラリア東海岸が属する。
新期造山帯は、金や銀などの非鉄金属の鉱山が多い。また、石油資源にも恵まれている。
ラス=サカスとネイティブ・アメリカン
ポトシ銀山の採掘行ったのは、先住民であるネイティブ・アメリカン(インディアン)であった。かれらは、エンコミンダ制度(後述)で事実上入植者の奴隷になっていた。
先住民は過酷な労働とヨーロッパからもたらされた新種の感染症によって、激減した。これにより、16世紀後半アメリカは労働力不足が発生。これが黒人奴隷の輸入につながる。
この状況を打開するために動いた人物もいた。ラス=サカスである。ラス=サカスは、スペイン生まれのドミニコ修道会の宣教師である。メキシコを拠点に布教活動を行った。52年に先住民の過酷な労働環境の改善をスペイン国王カルロス1世に訴えた。カルロス1世は、エンコミンダ制の廃止を検討したが、エンコミンダ制の利権を持つ多くの人々の反対で実現できなかった。
インカ帝国征服
イエズス会設立
16世紀前半は宗教改革の時代である。17年のルターの『95カ条の論題』をきっかけに宗教改革がはじまった。その中心は、ドイツ(神聖ローマ帝国)であった。
34年、パリ(フランス)でスペイン人宣教師たちが宗教団体を結成した。同34年にローマ教皇に即位したパウルス3世は、これを認可した。これがイエズス会である。中心人物は、バスク地方出身のロヨラ氏やザビエル氏であった。彼らの活動は、布教活動と教育活動である。おもにプロテスタント地域やアジアなどの他宗教地域で布教活動を行った。ザビエルは、49年に日本で布教活動を開始した。
教皇パウルス3世を支えたのは2つの勢力である。1つは、前述のイエズス会である。もう1つは、ドミニコ会である。ドミニコ会は、13世紀初頭の南フランスで成立した托鉢修道会である。アメリカ大陸にわたり、エンコミンダ制を批判したラス=サカスもドミニコ会出身である。ドミニコ会が成立した13世紀初頭は、教皇インノケンティウス3世の全盛期である。このときも、南フランスの異端勢力であるカタリ派との対立でドミニコ会は名声を上げた。
宗教裁判所(異端審問)
教皇パウルス3世は、42年にローマに異端審問所を設置した。プロテスタントなどの異端を取り締まるとともに、カトリックの改革派も取り締まった。
異端審問所は、国王直轄の機関として、スペインやポルトガルにも設置された。
教皇パウルス3世は、イギリス国教会を設立したイングランド国王ヘンリ8世を破門した。
45年、カルロス1世は、プロテスタント(ルター派)諸侯と和解するために公会議を開いた。北イタリアのトリエントで開催したのでトリエント公会議と呼ばれる。当時の教皇もパウルス3世である。
教皇パウルス3世の文化面の功績は、ミケランジェロの重用である。『最期の審判』が描かれたのもこの時代である。
カルロス1世とローマ教皇
ここで、16世紀初頭のイタリアを見ていこう。
10年、メディチ家出身のレオ10世がローマ教皇に即位。贖宥状の販売で反感を買い、宗教改革のきっかけを作った。
カルロス1世は、ある事件をきっかけに教皇レオ10世と対立するようになった。これがヘンリ8世の離婚問題である。当時、レオ10世とイングランドは良好であった。そのため、離婚は認められるはずであった。
このとき、ヘンリ8世の后は、スペイン王室でカルロス1世のおばである。当然、カルロス1世の立場からは認めれるものではなかった。
27年、カルロス1世は、ローマへ侵攻。ローマを灰にした。(ローマ劫掠)。ローマ教皇(レオ10世は21年に退位)を退位させ、親スペインの教皇を即位させた。当然、ヘンリ8世の履行ンは認められなかった。さらに、フィレンツェからメディチ家を追放した。
34年、教皇パウルス3世が即位。
翌35年、スペインは北イタリアのミラノを支配した。
スペイン、ペルー征服
33年、ピサロは、インカ帝国を滅ぼす。ペルー副王領を南アメリカに展開した。インカ帝国の都クスコを破壊し、跡地にリマという都市を建設した。
ポルトガル、ブラジル領有
32年、ポルトガルは南アメリカのブラジルを領有した。
サラゴサ条約とフィリピンの成立
サラゴサ条約とは、29年にスペインとポルトガルの間で結ばれた東南アジアの境界線を定める条約である。東経133度線を境界に西側をポルトガル領、東側をスペイン領とした。
きっかけは、香辛料の産地モルッカ諸島の領有権であった。11年、ポルトガルのアルブケルケがモルッカ諸島を征服。そこへ、フィリピンに進出したスペインが信仰したのである。
サラゴサ条約により、スペインはモルッカ諸島から撤兵した。一方で、フィリピンは東経133度の西側に合ったのだが、引き続きスペイン領として認められた。
日本は、東経133度線上に当たる。そのため、ポルトガル、スペイン両国が進出した。
メキシコ征服
コルテス、インカ帝国征服
16世紀初頭、アメリカには2つの帝国が存在した。メキシコのアステカ王国とペルーのインカ帝国である。
スペインは、キューバなどの西インド諸島に拠点をおいていた。
21年、キューバ総督のもとで働いていたコルテスは、アステカ帝国を征服した。
マゼランの世界一周
大航海時代の最大の目的は、東南アジア産の香辛料である。
11年、スペインに衝撃的なニュースが入った。ポルトガルのマラッカ王国支配である。スペインは、早く新大陸(アメリカ)と東南アジアの交易路の確保が求めれた。アステカ帝国の征服もその一環である。
これと並行して行われたのがマゼランの世界一周である。19年にスペインを出発。20年に新大陸最南端のマゼラン海峡を発見。太平洋に到達した。21年、太平洋を横断し、東南アジアのフィリピンに到達。フィリピンに拠点を築くとともにモルッカ諸島の探検を開始した。
フィリピンの首長は、マゼランらを歓迎した。当時フィリピンは、戦乱の時代で、マゼランらを味方にしたいと考えていた。マゼランはこの戦乱に巻き込まれて殺害された。残りのメンバーは、急遽、出港。緊急性があったため、航路の確立されていない新大陸ではなく、ポルトガルが築いたインド航路で築いた。スペインとポルトガルがライバル関係。ほとんどの港で補給ができず、過酷な航海となった。
拠点をパナマに
スペインは、カリブ海の探検を続けた。01年、コロンブスがパナマに上陸。パナマ周辺の探検が始まった。13年、バルボアが陸路で太平洋に到達。19年、スペインは、太平洋岸に港湾都市を建設した。これがパナマ市である。konoto
この港湾都市は、17世紀後半にイギリスの海賊に破壊されて衰退した。
ポルトガルとアフリカ東海岸
17世紀のイタリアは、多くの国に分割されていた。スペインもその1つであった。北イタリアのミラノ公国、中部イタリアのサルディーニャ島、南イタリアの両シチリア王国(ナポリ王国とシチリア島)である。スペインは、北イタリアの諸侯のサヴォイア家にシチリア島を割譲した。このサヴォイア家は、オーストリアとサルディーニャ島とシチリア島を交換。これにより、サヴォイア家はサルディーニャ王国になる。後のイタリア王国である。
オーストリア=ハプスブルク家との領土交渉は13年のユトレヒト条約で決裂。翌14年のラシュタット条約で解決した。
カルロス1世即位
カルロス1世
カルロス1世は、16年にスペイン国王に即位。19年には、神聖ローマ皇帝になった。(神聖ローマ皇帝ではカール5世)
家系図
カール5世は、神聖ローマ皇帝の家系であるハプスブルグ家の出身である。祖母は、オランダ(ネーデルラント)を統治していたブルゴーニュ家の出身である。
母は、スペイン王女である。
これにより、カール5世は、神聖ローマ帝国、ネーデルラントとスペインを支配する王になった。
ちなみに、カール5世の曾祖母は、ポルトガル王室出身である。これが、フェリペ2世がポルトガルを併合する要因になった。
アシエントの始まり
16世紀前半は、フランスとハプスブルグ家のイタリア戦争の最中であった。そのため、ハプスブルグ家は戦費のために多額の負債を負っていた。ちなみに、その資金を提供したのがフッガー家である。
そこで、カルロス1世は、ポルトガル商人に黒人奴隷の供給券を販売した。これがアシエントである。
ポルトガルのアジア進出
エンコミエンダ制
エンコミエンダ制
スペインは、アメリカの入植者にたいして、ネイティブ・アメリカンへの布教を条件に、ネイティブ・アメリカンに強制労働をさせることを認めた。これをエンコミンダ制という。
南米探検
99年、スペイン、アメリゴを南米探検に派遣
00年、ポルトガルのカブラルがブラジルに到着
01年、スペイン、アメリゴの第2回南米探検。