16世紀後半のスペイン フェリペ2世の太陽の沈まない国

前回の復習 17世紀前半のスペイン

 17世紀初頭にフェリペ2世はなくなる。これにより、スペインは衰退期に入っていった。オランダやポルトガルが独立した。

 今回は、スペイン全盛期のフェリペ2世の時代を見ていきます。

16世紀後半の国際情勢

 16世紀後半の日本は、戦国時代。織田信長や豊臣秀吉が活躍していた時代である。

 ヨーロッパは、スペインの全盛期である。ライバルであるフランスはヴァロワ家が断絶。ユグノー戦争で混乱していた。

フェリペ2世とは

系図

 フェリペ2世は、カルロス1世(カール5世)の息子である。カール5世がなくなると、叔父のフェルディナンド2世と分割相続を行った。これにより、ハプスブルグは、スペイン=ハプスブルグ家とオーストリア=ハプスブルク家に分裂した。

 妻は、イングランド女王メアリ1世である。そのため、16世紀なかばは、イングランドと良好な関係を結んでいた。しかし、メアリ1世がなくなると、イングランドではエリザベス1世が即位。フェリペ2世との結婚を拒否。これにより、イングランドとの関係は急速に悪化する。

版図)太陽の沈まない国

 フェリペ2世の支配領域は、スペインの他に、南イタリア、オランダ・ベルギー(ネーデルラント)がある。海外では、南北アメリカ(インカ帝国、アステカ帝国)東南アジアのフィリピンがある。

 さらに、在位中にポルトガル王にも即位。ポルトガルとポルトガルが保有するアジア・アフリカの拠点も獲得した。

生い立ちと宗教

 フェリペ2世は、幼少期は親元を離れスペインで生活していた。スペインは敬虔なカトリック教徒が多く、フェリペ2世も熱心なカトリック教徒であった。

アルマダの海戦に敗北

アルマダの海戦

 88年、スペイン無敵艦隊(アルマダ)がイギリス海軍に破れた。この敗戦をきっかけにスペインは衰退期に入る。

 当時のイギリス女王は、エリザベス女王である。フェリペ2世はエリザベス女王と政略結婚し、イングランドにも影響力を毛頭としたが、イングランドはこれを拒否した。そのような中、オランダ独立戦争が勃発。イングランドは、オランダを支援した。

 当時のイングランドは正式な海軍を持っていなかった。そのため、海賊のドレークに指揮をさせた。

 17世紀初頭、アルマダ海戦に勝利したイングランドとオランダは東インド会社を設立。ポルトガル(当時はスペインと同君連合)のアジアの拠点を次々攻撃した。

アムステルダム建設

 16世紀、オランダ(ネーデルラント)の最大の港はアントワープであった。

 アントワープは、オランダ独立戦争が始まると破壊された。さらに、アントワープを中心とした南ネーデルラント(ベルギー)は、戦線を離脱。多くのカルヴァン派(新教徒)の人々は、北部(オランダ)へ移住した。

 新たな貿易港として建設されたのが、アムステルダムである。アムステルダムは、その後、オランダの首都になった。

日本の少年使節が謁見

 九州のキリシタン大名は、ローマ教皇に使節を派遣した。天正遣欧使節団である。84年、ポルトガルのリスボンに到着。ポルトガル王兼スペイン王のフェリペ2世に謁見。翌年、ローマ教皇グレゴリウス13世にも謁見している。

オランダ独立宣言とポルトガル併合

オランダ独立宣言

 68年、オランダで反乱が発生。81年、オランダは独立宣言を発表。オランダの反乱は、独立戦争に発展した。

 オランダの反乱のきっかけは、宗教問題ではなく重税であった。16世紀なかば、スペインの財政は困窮していた。そのため、毛織物業で栄えていたオランダ・ベルギー(ネーデルラント)二重税を課したのである。

 その後、フェリペ2世は、反乱を受けて減税を実施。一方で、カトリックの強制を行った。ベルギー(南ネーデルラント)は、カトリック教徒が多いのでこれで和解した。一方で、オランダ(北ネーデルラント)は和解せず、オランダ独立宣言を発表した。

 これを支援したのが、イングランド女王エリザベス1世である。当時のイングランドは、エリザベス1世の結婚問題でスペインとの関係が悪化していた。

スペイン、ポルトガル併合

 80年、ポルトガル王家が断絶。新国王を模索していた。当時のポルトガルは、インド航路で稼いでいたが、イングランドやフランスの海賊に悩ませれていた。そのため、大国の後ろ盾が欲しかった。そこで白羽の矢が立ったのがスペイン国王フェリペ2世である。

ユトレヒト同盟

 オランダ(北ネーデルラント)は、スペインと戦うためにユトレヒト同盟を締結。

 16世紀のオランダ・ベルギーは毛織物業者が集まっていた。比較的豊かな地域であった。そのため、多くの領主がこの地域の領有を求めていた。

 宗教はカトリックであったが、16世紀に入りカルヴァン派が伝わると、多くの商人がカルヴァン派になった。主に北部の人々がカルヴァン派を信仰した。

レパント海戦に勝利

レパント海戦

 01年にスペイン国王に即位したブルボン家のフェリペ5世をヨーロッパ各国は承認した。

 ただし、スペインとフランスが合同しないことが条件とされた。これにより、フェリペ5世は、フランスの王位継承権を甥のルイ15世に譲った。

 これにより、スペイン=ブルボン家が成立した。

オランダ独立戦争

 スペインは、イギリスにミノルカ島とジブラルタを譲渡した。

 地中海と大西洋の間にはジブラルタル海峡がある。その近郊に当たる。そのため、イギリスが地中海に入るための重要な拠点である。

 ミノルカ島は、アメリカ独立戦争でスペインに返還された。

 一方、ジブラルタは、現在もイギリス領である。

イギリスにアシエントを認める

 ユトレヒト条約で、アシエントはフランスからイギリスへ譲渡された。

 アシエント権とは、スペイン王室が認めるスペイン植民地(南北アメリカ大陸など)で奴隷を販売する権利である。

 イギリスは、アシエント権を利用して、大西洋三角貿易を拡大し、莫大な資金を獲得。これが18世紀から始まる産業革命につながる。

 01年に、スペイン=ブルボン家が成立すると、アシエントはフランスの会社が独占した。これが13年のユトレヒト条約でイギリスに渡った。

 アシエントは、スペイン語で「契約」を意味する。元々は、スペイン王室が商人と交わした借入契約が始まりである。

 16世紀、スペイン王室は度重なる戦争で財政が悪化した。そのために商人から借金を行った。スペイン王室は返済の代わりに徴税権(国家の代わりに税金を集める権利)を付与した。そこで一番人気が高かったのがスペイン植民地(南北アメリカ大陸)の奴隷販売にかかる関税であった。そのため、17世紀には、アシエントは植民地での奴隷販売権を意味するようになった。

 具体的には、イギリス商人(南海会社、のちにカディス黒人会社)がスペイン王室に黒人奴隷の関税を前払いする。イギリスは、アフリカで奴隷を仕入れ、大西洋を横断。スペイン植民地(メキシコ、南アメリカなど)で奴隷を販売。売却代金から、関税、仕入れ代金、輸送コストを引いたものがイギリス商人の収入担った。関税を支払っても莫大な利益が出る交易路であった。

イタリアとブラジル

 17世紀のイタリアは、多くの国に分割されていた。スペインもその1つであった。北イタリアのミラノ公国、中部イタリアのサルディーニャ島、南イタリアの両シチリア王国(ナポリ王国とシチリア島)である。スペインは、北イタリアの諸侯のサヴォイア家にシチリア島を割譲した。このサヴォイア家は、オーストリアとサルディーニャ島とシチリア島を交換。これにより、サヴォイア家はサルディーニャ王国になる。後のイタリア王国である。

 オーストリア=ハプスブルク家との領土交渉は13年のユトレヒト条約で決裂。翌14年のラシュタット条約で解決した。

 

フェリペ2世

敬虔なカトリック教徒

 スペイン継承戦争は、スペイン王位をめぐりフランスとオーストリア(神聖ローマ皇帝)の間で行われた戦争で合う。01年に始まり、13年のユトレヒト条約で終結した。

 当時のヨーロッパの戦争は全世界に飛び火した。特に戦場になったのはアメリカとインドである。

ポルトガル、マカオに居住権

 フランスとオーストリアの間で行われた戦争であるが、多くのヨーロッパの国々はオーストリア側についた。その代表国は2つである。

 1カ国目は、イギリスである。イギリスは、アメリカとインドでフランスと植民地争奪戦(英仏第2次百年戦争)が行われていた。

 2カ国目は、プロイセン(のちのドイツ)である。プロイセンは、プロイセンは神聖ローマ帝国内の1諸侯国である。当時、プロイセンは公国であった。神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルグ家)は、スペイン継承戦争で味方することの見返りに、プロイセンを王国に昇格させた。

 スペイン継承戦争の前に、ヨーロッパ諸国が反フランスとして団結する戦争があった。88年に起きたファルツ戦争である。これにより、神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルグ家)を中心にアウクスブルク同盟が結成された。

ハプスブルク家の分裂

 オーストリア=ハプスブルク家

 原因は、スペイン=ハプスブルグ家の王位継承問題である。

 00年、スペイン国王カルロス2世がなくなる。王位継承者になる息子も兄弟もいなかった。これにより、スペイン=ハプスブルグ家は断絶した。

 スペイン国王継承者に上がったのはカルロス2世の2人の姉妹の嫁ぎであった。フランス=ブルボン家とオーストリア=ハプスブルグ家である。

 この2つの家がスペイン王位を巡って起きたのがスペイン継承戦争である。

背景はルイ14世の領土拡大戦争

 18世紀初頭にヨーロッパの中心にいたのは、ルイ14世である。ルイ14世は、フランス国王で太陽王と呼ばれていた。

 この時代、貴族の発言力が低く、国会(三部会)も開かれていない。絶対王政の時代である。

 経済力も高い。インドやアメリカなどの海外植民地との交易で莫大の富を得ていた。

 絶対的な権力を使って、フランス国王14世が実施したのが領土拡大戦争である。