1870年代のイタリア ベルリン会議とチュニジア争奪戦

前回の復習 1880年代のイタリア

 1880年代、近世の終盤である。イタリアは、チュニジア問題でフランスと対立していた。そのため、イタリアはドイツに接近。ドイツ・オーストリアと三国同盟を締結する。

 さて、1870年代のイタリアでは、チュニジア問題のきっかけになったベルリン会議を見ていきます。

ベルリン会議

ベルリン会議とは

 ベルリン会議とは、サンステファノ条約に干渉するために開かれた会議である。サンステファノ条約とは、露土戦争に勝利したロシアがオスマン帝国(トルコ)と締結した条約である。

 当時の国際会議の中心は、ドイツ帝国のビスマルクであった。この会議はビスマルクを中心にベルリン(ドイツ帝国の首都)で開かれた。

 この会議で、ロシアとブルガリアは獲得した領土の一部をオスマン帝国に返還した。その見返りにオスマン帝国は、領土の一部をイギリスなどに割譲した。

各国の獲得した植民地

 この会議で、各国が獲得した領土は次のとおりである。

 イギリスは、東地中海のキプロス島を獲得。この地は1960年のアフリカの年に独立。現在、ギリシャ系住民とトルコ系住民が対立している。

 オーストリアは、バルカン半島北部のボスニア=ヘルツェゴビナの統治権を得る。この地をめぐり、セルビア人(のちのユーゴスラビア)と対立。第一次世界大戦のきっかけになる。

 フランスは、北アフリカのチュニジアの進出が認められた。これにはイタリアが猛反発したが認められなかった。そのため、イタリアとフランスはこの後対立するようになる。

 イタリアとドイツ帝国は、この会議で領土を獲得することはなかった。

三帝同盟の解消

 ドイツ、オーストリアとロシアは、三帝同盟を締結していた。しかし、ベルリン会議でバルカン半島をめぐるオーストリアとロシアの対立が表面化。ロシアは、三帝同盟から離脱した。

 ビスマルクは、82年にロシアと再保障条約を締結。同じ年、ドイツとオーストリアの同盟にイタリアを加えて三国同盟を締結した。

ビスマルク外交

ドイツ帝国の成立

 70年代から80年代は、ビスマルク外交の時代である。71年、ビスマルクは、普仏戦争でナポレオン3世(フランス)に勝利し、ドイツ帝国を建国。普仏戦争の勝利で、各国はビスマルクを無視して外交を行うことはなかった。一方で、建国したばかりのドイツ帝国も多くの国を敵に回すことはなかった。

三帝同盟

 ビスマルクは、国力増強のため、できるだけ戦争をしたくなかった。そのため、フランスがドイツに報復戦を挑まないように80年代に強固な同盟関係を築いた。

 ビスマルクが想定した最悪のシナリオは、露仏同盟である。そのため、ビスマルクはロシア、オーストリアと三帝同盟を締結した。

露土戦争

 しかし、三帝同盟は思わぬ方向へ飛び火した。ロシアは、50年代のクリミア戦争の報復戦に打って出た。これが露土戦争である。

 三帝同盟によって、ヨーロッパ各国はオスマン帝国支援に回らなかった。特にオスマン帝国と親交の深いフランスは、普仏戦争とパリコミューンの被害で、露土戦争に援軍を送る余裕はなかった。

チュニジア問題

チュニジアとは

 チュニジアは、北アフリカの中央部に当たる地中海に突き出した国である。対岸がイタリアのため、東地中海と西地中海の間にある海上交通の要所である。

 古代は、カルタゴ(フェニキア人)やヴァンダル王国(ゲルマン民族)の都がおかれた。イスラム教国のファーティマ朝の建国もチュニジアであった。

 16世紀に入ると、オスマン帝国の支配下に入った。

フランスとの対立

 1830年代、フランスは北アフリカのアルジェリアへ進出。イタリアよりも先に北アフリカへ侵攻していった。

70年代のイタリア

ローマ教皇

 ローマ教皇は、ローマ教会のトップであるとともに、ローマカトリックのトップでもあった。18世紀まで、ローマ教皇は中部イタリアに広大な領土を持っていた。

 しかし、19世紀に入ると、イタリア統一運動の過程でその領土は縮小していた。

 当時ローマ教皇領を守っていたのはフランスであった。70年に 普仏戦争に敗北するとローマから撤退。イタリア王国はこの隙にローマ教皇領を併合した。イタリア王国は、首都をフィレンツェからローマへ移した。

 ローマ教皇領は、1929年にムッソリーニによってヴァチカン市国として復活して現在に至る。

未回収のイタリア

 イタリアは、オーストリアとの間に国境問題を抱えていた。60年代の普墺戦争時に、ヴェネツィアを併合。しかし、トリエステと南チロルの問題が残っていた。

 これが解決したのは、第一次世界大戦のときになる。

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