前回の復習 1810年代の日本
1810年、日本は江戸時代。三大改革の時代。寛政の改革後の徳川家斉の大御所時代に当たる。化政文化が花開きつつある時代です。
この時期、外国船が日本近郊に頻繁に現れていた。シーボルト事件が起きたのもこの時代である。
1800年代の国際情勢
ヨーロッパでは、ナポレオン戦争が展開していた。この戦争は全世界で展開された。アメリカでは、米英戦争が展開された。東アジアでは、フェートン号事件などのイギリス船の襲撃事件が発生していた。
北海道とロシア
17世紀末の北海道
89年、国後島でアイヌ人による反乱が発生。松前藩が鎮圧した。
92年、ロシアの使節ラスクマンが北海道東部の根室に来航。漂流民を届けるとともに、通商を求めた。日本は、通商を拒否。長崎の入港許可書を渡して帰国させた。当時、ロシアは択捉島でアイヌ人と交易を行っていた。これを受けて、幕府は諸藩に沿岸部の防衛の強化を実施。東北諸藩に蝦夷地の防衛を指示した。
98年、択捉島探検。「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。
フランス革命と日本
18世紀末、ヨーロッパでフランス革命が発生。これは日本にも影響を与えた。
江戸幕府とのヨーロッパとの交易は、オランダのみとしていた。実際は、東南アジアのジャワ島にあるオランダ東インド会社と取引を行っていた。
オランダは、95年本国がフランス革命軍に占領される。オランダ王家は、イギリスに亡命。このときに手土産として持っていったのがオランダ東インド会社の経営権であった。
オランダ東インド会社はこれに反発。アメリカの傭兵部隊を雇って抵抗した。99年、オランダはオランダ東インド会社を解散。オランダ政府の直轄地とした。
入植
00年、八王子千人同心の100人が北海道(蝦夷地)に入植する。
蝦夷地探検
00年、伊能忠敬が蝦夷地の測量を開始した。
01年、ウルップ島の探検
02年、蝦夷奉行(遠国奉行)を設置。東蝦夷地(北海道の太平洋沿岸部と北方領土など)を幕府の直轄地にした。
レザノフ来航
04年、レザノフが、ラスクマンが受け取った入港許可書を持参して長崎に来航。通商を求めた。
幕府は、再びこれを拒否。レザノフを冷遇した。
文化の薪水給与令
06年、江戸幕府は鎖国令を一部緩和。外国船に飲料水と燃料(薪)の提供を認めた。しかし、ロシアの襲撃を受けて、わずか1年で撤回した。
ロシア、択捉島と樺太を攻撃
ロシアは、交渉を打ち切り、武力制圧にシフトした。樺太や択捉島を襲撃した。
しかし、これらの攻撃は、極東の現地勢力が独自に行っていた。08年、サンクトペテルブルクにいたロシア皇帝か撤退命令。択捉島、樺太からロシア軍は撤退した。
これを受けて、ゴローニン事件のときは、攻撃をする前にサンクトペテルブルクにいる皇帝にお伺いを立てている。
長崎でフェートン号事件
翌08年8月、長崎でも外国船の襲撃事件が起こった。イギリス船が長崎のオランダ商館を襲撃したフェートン号事件である。
06年、オランダはナポレオンの弟が国王に就任。
このとき、イギリスは、東南アジアをめぐりオランダと戦乱状態にあった。そのため、東アジアの港に出没していた。長崎の他に、マカオも攻撃していた。
イギリス船籍のフェートン号は、オランダ国旗を掲げて長崎に入港。オランダ商館を占拠。江戸幕府に燃料(薪)と食料などを要求した。長崎奉行は、抵抗できるほどの十分な警備人数を確保できていないため、燃料(薪)と水を渡して帰国させた。
この事件を受けて、長崎奉行は切腹。警備の責任があった肥前藩(鍋島家)は謹慎処分を受けた。この反省を受けて、肥前藩は西洋軍備の研究を進めた。幕末には、薩長土肥の1角を締めた。
北海道の直轄化
話を、北海道に戻す。ロシアの樺太遠征を受けて、江戸幕府は、西蝦夷地(日本海沿岸、オホーツク海沿岸、樺太など)も幕府直轄地(天領)とし、蝦夷奉行の統治下においた。
これらの地は、20年に松前藩に返還される。
間宮林蔵の樺太探検
幕府は、西蝦夷地を直轄化すると、ロシアからの防衛のために測量を開始した。これを行ったのが、間宮林蔵である。間宮林蔵は、北海道の測量を実施した。測量の先生に当たるのが伊能忠敬であった。
間宮林蔵は、樺太が半島ではなく島であることを発見した。樺太とユーラシア大陸の間の海峡は間宮海峡と呼ばれる。(国際的にはタタール海峡)。
ゴローニン事件へ
11年、ロシアの軍艦がロシアに上陸。蝦夷奉行は艦長ゴローニンを逮捕。これにより、日本とロシアの間で再び緊張が走る。
徳川家斉
当時の江戸幕府
19世紀初頭、日本は江戸時代後期。三大改革の時代である。
将軍は、11代目の家斉の時代である。
93年、老中首座松平定信が失脚。寛政の改革が終わる。しかし、寛政の改革時の政策を継承していた。
伊能忠敬の日本地図作成プロジェクト
00年、伊能忠敬の日本地図作成プロジェクトが始まる。最初に測量を開始したのは、東北と北海道である。このときにサポートした1人が、間宮林蔵である。
05年、幕府公認のプロジェクトになる。
16年、測量が完了。
18年、伊能忠敬、没
21年、日本地図が完成。
江戸の治安の悪化
農民の格差
江戸時代の後期になると、農民間で格差が発生した。
その理由は、商品作物の栽培が盛んになったことである。
商品作物は、綿花(布の原料)、菜種(油の原料)や藍(染料)等がある。
これらを育てるには、高級肥料(金肥)を必要とした。そのため、先行投資がかなりかかった。
成功すれば、莫大な富を得たが、失敗すれば多額の借金を背負うことになった。この成否により、農民に格差が生じた。
貧しくなった農民は、農地を豪農に売り渡し、小作人になった。
豪農は、しばらくすると、小作人の収入のみで生活ができるようになる。明治時代になると、地租改正で正式な地主となり、帝国議会が成立すると参政権を得た。
江戸の人口流入
貧農の多くは、小作人になった。しかし、一部の農民は、食を求めて都市へ向かった。
17世紀後半、田沼政治で幕府の財政は拡大。江戸は好景気になる。江戸は人材不足になった。ここに集まったのが東北や関東の貧農である。
この時の言葉に、「江戸っ子は宵越しのかねを持たない」という言葉がある。当時の給料は日払いであった。江戸っ子は働いた給料をその日にもらい、その日に消費した。その理由は、2つあった。1つは火事である。江戸は防火設備がないため、火事が頻繁に起こった。そのため、貯蓄が灰になることもしばしばであった。2つ目は、職が溢れていることであった。お金を使い切っても、明日には仕事にありつける保証があったからである。
この江戸の好景気も長くは続かなかった。天明の大飢饉は、江戸に多くの失業者を出した。江戸の街には、蓄えのない失業者があふれた。これにより、江戸の治安は悪化した。
関東取締出役
05年、江戸の治安の悪化に対処するため、関東取締役出役を設置した。