前回の復習 1860年代の日本
1868年、大政奉還により、江戸時代が幕を閉じる。
今回は、江戸幕府が幕を閉じるきっかけになった黒船来航を見ていきます。
1850年代の国際情勢
ヨーロッパは、48年革命が終わったあとの時代である。フランスは、ナポレオン3世が登場。イギリスと組んで、クリミア戦争とアロー戦争に勝利していく。
流れ
53年、黒船来航
50年代から、日本の近代が始まる。そのきっかけは、黒船来航である。
今までの外国船は主として帆船であった。しかし、黒船は、大砲を搭載した蒸気船である。幕府はこれに大きな衝撃を受けた。黒船を指揮したのは、アメリカのペリーである。
一方、幕府の中心人物は、老中首座の阿部正弘であった。天保の改革を実施した水野忠邦の後継者である。
53年4月、ペリー(アメリカ)は琉球王国(沖縄)に来航
53年6月、ペリー(アメリカ)が、東京湾(浦賀沖)に到着。回答を1年後とした。
同6月、12代将軍家慶が病死。13代将軍家定が即位。若く、子どもがいないため、将軍継嗣問題が起こる。
53年7月、ロシアのプチャーチンが長崎に来航。
阿部正弘は、譜代や旗本だけでなく、親藩や外様大名にも意見を聞いた。そのため、親藩や外様大名の発言力が増した。その中で台頭したのが水戸藩や薩摩藩を中心とした一橋派である。これに対し、譜代大名を中心とした南紀派と対立した。
54年3月、神奈川(横浜)で日米和親条約を締結。アメリカと国交を開くも、通商を認めず。箱館と下田を開港。
54年10月、阿部正弘が老中首座を辞任。開国派の堀田正睦氏がその座を引き継いだ。
堀田正睦とハリス
54年10月、開国派の堀田正睦氏が老中首座に就任。
54年12月、安政の大地震。この頃から、日本では巨大地震が頻発する。
55年2月、日露和親条約を締結。ロシアとの国交を樹立。ロシアとの国境を確定。長崎を開港。
55年11月、江戸で大地震。(安政江戸大地震)
56年8月、ハリス(アメリカ)が下田の総領事に就任。堀田正睦と通商交渉を開始。
日米通商条約をまとめるも、勅許が得られず調印することができなかった。
この頃、幕府は主流派の南紀派と反主流派の一橋派が対立。将軍継嗣問題と外交問題で対立した。
58年、日米通商修好条約
南紀派は、この難局を強引に進めた。58年4月、南紀派の井伊直弼が大老就任。5月、大老は将軍後継者を指名。徳川家茂が将軍に就任。
一方で、通商問題は、勅許を得てから行う予定であった。
58年6月、アロー戦争で清王朝が敗北。天津条約を締結した。
これを受けて、6月、勅許を得ぬまま、日米修好通商条約を締結。
翌7月、家定が死去。14代将軍の家重が将軍に就任した。
60年、桜田門外の変
孝明天皇は、違勅調印に激怒、幕府を通さずに水戸藩に密勅を送る。
これが判明、一橋派の処罰が行われた。これが安政の大獄である。
60年3月、一橋派の浪人が、大老井伊直弼を暗殺。これが桜田門外の変である。
外交 開国
鎖国
江戸時代の日本は、鎖国していた。しかし、国を閉ざしていたわけではなく、貿易を統制していただけであった。
幕府は、直轄地(天領)でオランダと清王朝と交易を行っていた。また、3つの藩に交易を認めた。
- 薩摩藩(鹿児島県・島津家) 琉球王国
- 対馬藩(長崎県・宗家) 李氏朝鮮
- 松前藩(青森県・蠣崎家) 蝦夷地(アイヌ・北海道)
17世紀から18世紀のオランダは、ジャワ島(インドネシア)のパタヴィア(現在のジャカルタ)を拠点にヨーロッパと東アジアの貿易を独占していた。しかし、19世紀初頭のナポレオン戦争以降、衰退傾向にあった。
クリミア戦争 50年代前半の国際情勢
50年代の国際情勢は、どのような状況であったのであろうか。
40年代、アヘン戦争でイギリスが清王朝に勝利。欧米が東アジアに進出した。しかし、48年革命がお起き、ヨーロッパの東アジアへの進出は鈍化した。
50年代に入り、フランスでナポレオン3世が皇帝になる(第二帝政)。これにより、ヨーロッパの海外進出が加速する。
53年10月、ヨーロッパではクリミア戦争が勃発。イギリス・フランス連合軍とロシアの間で戦争が行われた。戦場は日本近海まで広がっていた。イギリスは、アヘン戦争で獲得した香港から、日本近海を通りロシア領カムチャツカへ侵攻した。
アメリカは、48年革命やクリミア戦争でヨーロッパが混乱している間に中国へ進出しようとした。
当時のアメリカの様子は、どのような状況であっただろうか。
アメリカ=メキシコ戦争に勝利。カリフォルニアを獲得。アメリカの領土は大西洋に達した。49年のゴールドラッシュでカリフォルニアへの移住が盛んになった。トルが来日。薪水給与令によって、上陸ができた。浦賀奉行が交渉にあたった。
アメリカは、なぜ日本に開国を求めたのであろうか。
理由は、3つある。1つ目は、カリフォルニアへの航路の獲得である。カリフォルニアとアメリカ東部の間には、険しいロッキー山脈があった。この山脈を超えるのは昔は困難を要した。そのため、カリフォルニアに行くには、世界を1周してむかっていた。そのため、太平洋の横断ルートを必要とした。その寄港地として、日本を考えていた。
2つ目は、捕鯨船の寄港地としてである。19世紀前半、ヨーロッパでは産業革命が展開されていた。産業革命によって、機械の潤滑油やランプの油の利用で、油の需要が高まった。石油がなかった時代。動物や植物から油を取っていた。その中心は、クジラであった。ヨーロッパ諸国は、クジラを求めて太平洋に進出した。クジラ漁船の寄港地として日本が選択された。
3つ目は、清王朝との交易である。42年の南京条約で、清王朝は広州以外に4つの港を開港した。アメリカも清王朝と条約を締結。カリフォルニアから太平洋を横断した取引を模索した。
ペリー来航
アメリカは、ペリー来航前に2回、交渉を行おうとした。1回目は、37年のモリソン号事件である。このときは、異国船打払令によって
53年4月、ペリーが琉球王国に来航。
6月、ペリーが浦賀(神奈川県横須賀市)に来航。
老中阿部正弘は、フィルモア大統領の国書を受け取り、将軍の病気を理由に、回答を1年後とした。当時、12代将軍家慶は、病弱。ぺりーらいこう
7月、ロシアのプチャーチンが長崎に来航。開国と国境の確定を求めた。当時のロシアは、クリミア戦争の真っ只中である。
武家諸法度で禁止された大船の建造を容認。東京湾(江戸湾)沿岸に砲台を築いた。これが、現在フジテレビがあるお台場である。投獄中の高島秋帆を幕府に復帰させ、再び西洋砲術を指南させた。
日米和親条約
翌57年1月、ペリーが、7艘の軍艦を率いて再び江戸湾に来航。お台場のある品川沖に向かった。幕府は、神奈川(横浜市、横浜駅の東側)で交渉することになった。
3月、神奈川で、日米和親条約を締結した。内容は、以下の通りである。このときは、通商(交易)は拒否している。
- アメリカ船が必要とする燃料と食料を供給すること
- 難破船や乗組員を救助すること
- 下田と箱館(函館)を開港し、領事の駐在を認めること
- アメリカに一方的な最恵国待遇を認めること
下田は、クジラの取れる太平洋側で、江戸から程よい距離があり、半島で守りやすいという利点から選ばれた。のちに、下田近郊の伊豆の韮山に、伊豆の代官である江川太郎左衛門(坦庵)が反射炉を築いた。反射炉とは、鉄を溶かせるほどの高温にできる炉である。反射炉がないと、大砲を作るほどの硬い鉄を大量に作ることができない。
一方、箱館は、蝦夷地との交易で栄えていた。ロシアに近く、太平洋から日本海を結ぶ津軽海峡に面していた。
最恵国待遇とは、日本がイギリスなどの他国と日米和親条約よりも有利な条件で条約を締結した場合、アメリカにも適用されるという条項である。一方的なので、アメリカがイギリスなどの他国と有利な条約を締結しても日本には適用されない。
クリミア戦争
日米和親条約が締結された3月、ヨーロッパではクリミア戦争が勃発。
9月、クリミア戦争は日本近海まで広まった。
10月、イギリスは日英和親条約を締結。このとき、下田・箱館にくわえて長崎も開港した。最恵国待遇でアメリカにも適用された。
オランダとフランスもこれに追随した。
12月、ロシアとの交渉を開始。翌54年2月に日露和親条約が締結される。
このとき、蝦夷地との国境が確定。択捉島以南が日本領とされ、樺太は、境界を定めないこととされた。
領事ハリス 来日
翌56年、日米和親条約によって総領事ハリスが来日。下田に駐在する。総領事ハリスには、1つの役割があった。日本との交易の開始である。
堀田正睦は、一橋派の切り崩しを始める。穏健派の島津家の篤姫を将軍家定の正室に迎える。
10月、アロー戦争が勃発。翌57年12月、英仏連合軍が広州を占領。清王朝に条約を迫った。
同じ頃、総領事ハリスは、江戸幕府に通商を要求。
老中首座で開国派の堀田正睦は、ハリスと通商に関する交渉に当たった。交渉がまとまり、朝廷に勅許を求めた。しかし、孝明天皇は勅許を与えなかった。これにより、通商交渉は白紙に戻るかに見えた。
日米修好通商条約
58年6月、清王朝は、アロー戦争で英仏両軍に敗北。天津条約を締結。大老井伊直弼は、勅許の得られないまま日米修好通商条約を締結した。
条約の内容は、以下の通りである。
- 神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港
- 江戸・大坂の開市
- 通商は自由貿易とする
- 開港場に居留地を設け、一般外国人の国内旅行を禁じる
- 日本に滞在する自国民への領事裁判権を認める(領事裁判権)
- 日本の関税は、相互に協議して決定する。(協定関税制、関税自主権の喪失)
翌59年、横浜、箱館、長崎で貿易を開始した。当初は、神奈川を開港する予定だったが、東海道沿いで治安の悪化を考え、現在、神奈川県庁がある関内の方に開港した。横浜の開港にともない、下田は閉鎖された。
58年8月、この条約は、オランダ・イギリス・フランスとロシアとも締結された。これが安政の五カ国条約である。
政治
ペリー来航前の江戸幕府
50年代初頭の江戸幕府はどのような状況であったであろうか。
12代将軍家慶の時代である。天保の改革に失敗し、幕府への信頼は低下していた。将軍家慶も病に伏せていた。
当時の老中首座は、阿部正弘であった。43年に老中に就任。45年、天保の改革の失敗で水野忠邦が失脚。阿部正弘が老中首座についた。
ここで、江戸幕府の仕組みについて、将軍の下には、臨時職の大老があり、常設機関としてのNo2は、老中である。老中は会議体で複数名の譜代大名で構成されていた。
これは戦国時代からの名残である。2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、家康(演 松本潤)の前で、石川数正(演 松重豊)ら有力家臣が、話し合いをしているシーンが数多く見られる。この有力家臣団が、江戸幕府が成立するとそのまま老中になった。
3人のキーパーソン
50年代の江戸幕府のキーパーソンは、以下の3人である。
- 老中首座 阿部正弘
- 老中首座 堀田正睦
- 大老 井伊直弼
阿部正弘は、天保の改革を行った水野忠邦のあとに老中首座になった。日米和親条約を締結。開国へ向けて、その地位を開国派の堀田正睦に譲る。
堀田正睦は、下田総領事のハリスと交渉し、日米修好通商条約の案をまとめた。58年4月、孝明天皇の勅許を得ようとしたが、失敗。
58年4月、老中首座堀田正睦は、勅許取得に失敗すると、一橋派の松平慶永の大老就任を進言した。しかし、将軍家定はこれを認めなかった。南紀派は、一橋派のクーデター疑惑を利用して、井伊直弼を大老に就任させる。老中首座堀田正睦や一橋派の人々を一掃した。
58年6月、清王朝は、アロー戦争で英仏両軍に敗北。天津条約を締結。大老井伊直弼は、勅許の得られないまま日米修好通商条約を締結した。また、将軍後継者を徳川慶福(のちの家茂)に決定した。
大老とは、
大老は、江戸幕府の臨時の役職で老中の上に置かれた。重要な政治課題の主なものは、将軍の後継者指名であった。
大老 | 老中 |
臨時職で1名 | 常設で複数名の会議体 |
老中の上 | 常設の最高意思決定機関 |
重要な政治課題のみを担当 評定などの通常業務はなし |
大老は、有力譜代大名の井伊家(近江彦根藩)、酒井家(播磨姫路藩)、土井家(下総古河藩)と堀田家(下総佐倉藩)の4家で構成されている。老中首座堀田正睦も堀田家の出身である。
一橋派vs南紀派
ペリー帰国後の将軍家慶が死去。13代将軍家定も病弱であった。
そのため、老中首座阿部正弘は、広く意見を聴こうとした。江戸幕府は、譜代大名と旗本で政治が行われていた。ここに親藩や外様大名を参加させた。さらに朝廷(京都)の意見を聴くことになった。
- 譜代大名 徳川家康を昔から支えていた家系の大名
- 旗本 江戸幕府が直接雇用している家臣団
- 親藩 将軍の親戚
- 外様大名 関ケ原の戦い前後で徳川家に従った大名
これに政治に参加したのは、以下の人たちである。
- 親藩
- 水戸藩(御三家) 徳川斉昭
- 越前藩 松平慶永
将軍家と御三家以外の親戚は、松平を名乗った。
- 外様大名
- 薩摩藩 島津斉彬
彼らは、徳川斉昭の息子慶喜が御三卿の1つの一橋家への養子に入り、将軍後継者への準備を開始した。
では、なぜ老中首座阿部正弘は、大名や朝廷の意見を取り入れる必要があったのであろうか。天保の改革の失敗で幕府の信用は低下していた。一方で、いくつかの藩では藩政改革を成功させ、経済力を高めていた。また、朝廷も光格天皇によって、朝廷復古の考え方が広まった。
そのころ、幕府では、徳川斉昭を中心とした攘夷派(開国反対派)と井伊直弼を中心とした開国派の対立が激化した。対立は、外交政策だけではなかった。病弱な13代将軍の後継者問題もあった。
徳川斉昭らは、一橋家(御三卿)の養子である一橋慶喜を将軍にするために動いた。そのため、一橋派と呼ばれた。
一方、開国派は、血縁を重視して、幼少の紀伊藩主徳川慶福を将軍にする方向で動いた。そのため、南紀派と呼ばれた。
ちなみに、老中首座阿部正弘は、一橋慶喜を次期将軍と考えていた。
一橋派 | 南紀派 | |
攘夷(開国反対) | 外交政策 | 開国賛成 |
実力重視で 一橋家の養子である 一橋慶喜 | 次期将軍 | 血縁重視で 紀伊藩主である 徳川慶福 |
徳川斉昭(水戸) | 代表 | 井伊直弼(彦根) |
松平慶永(越前) 島津斉彬(薩摩) | メンバー | |
親藩(水戸・越前) 外様大名(薩摩・土佐) | 出身 | 譜代大名 旗本 |
この対立をうけて、11月、阿部正弘は老中を辞職。開国派の堀田正睦を次期老中首座に指名した。堀田正睦は、外交政策では開国派であったが、将軍後継者問題では、阿部正弘と同様に、一橋慶喜と考えていた。
京都 孝明天皇はなぜ勅許を出さなかったのか?
桜田門外の変
一橋派への密勅
勅許なき条約締結に2つの勢力が激怒した。1つは、一橋派である。もう1つは、朝廷である。
朝廷は、幕府に説明を求めたが適切な回答が得られなかった。そのため、9月、水戸藩に密勅が送られた。当初は、朝廷との関係が深い薩摩藩に送られる予定であったが、8月に島津斉彬が死去。そのため、水戸藩に送られた。
一橋派への弾圧 安政の大獄
この密勅事件を受けて、大老井伊直弼は一橋派の処罰を行った。
水戸藩の徳川斉昭、一橋慶喜や越前藩の松平慶永が謹慎処分を受ける。薩摩の西郷隆盛は流罪。越前の橋本左内や長州の吉田松陰が死刑になった。
桜田門外の変 大老井伊直弼の暗殺
60年、桜田門外の変が発生。水戸脱藩士によって、大老井伊直弼は暗殺された。
経済・社会 開国インフレ
天保の改革による不況
40年代は、天保の改革の時代。倹約令が出ていたので消費は大幅に減退。幕府もあまりお金を使わなかった。そのため、50年頃の経済は不況になっていた。また、株仲間の解散によって、物価は高騰していた。
江戸時代末期の商人は、大きく2つの累計される。江戸などの大都市に拠点を置く商人と、農村に地盤を置く在郷商人である。
都市部の商人は、株仲間制度で都市部の商売を独占していた。しかし、天保の改革で株仲間が解散。在郷商人の交渉力が高まった。
在郷商人は、基本的には村の有力者である。