前回の復習 1930年代のシリア・パレスチナ
1930年代、パレスチナでは嘆きの壁事件をきっかけにアラブ人とユダヤ人の対立が激化。これが第1次中東戦争つながる。一方、シリアはフランスからの独立へ向けて交渉を開始する。
今回は、パレスチナになぜユダヤ人が急増したかを見ていきます。
1920年代の国際情勢
1920年代と1930年代は戦間期と呼ばれる時代である。20年代は、第一次世界大戦後のつかの間の平和を享受した時代である。
パレスチナ)嘆きの壁事件
アラブ人とユダヤ人の武力衝突
嘆きの壁事件とは、聖地エルサレムで起きたアラブ人とユダヤ人の武力衝突である。
原因は、エルサレムにあるユダヤ人の聖地の嘆きの壁で起きた。ユダヤ移民の若者が嘆きの壁の前でシオニズムの旗を振り、シオニズムの賛美歌(のちのイスラエル国歌)を歌い、更新を行った。事前にイギリス植民地政府に通達済みであり、植民地政府は警察を派遣し十分に警戒していた。しかし、アラブ人はその情報を知らなかった。
この行動は、アラブ人の感情を逆なでし、ユダヤ人とアラブ人による武力衝突が発生。この武力衝突は1週間も続いた。
この事件は、ユダヤ人とアラブ人に遺恨を残し、現在まで続く。
聖地エルサレムと嘆きの壁
聖地エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教とイスラム教の聖地である。
ユダヤ教徒にとってはユダヤ人国家があった場所である。キリスト教徒にとっては、イエスが生まれ処刑された場所である。イスラム教にとっては、ムハンマドが昇天した場所である。
嘆きの壁とは、現在エルサレムのユダヤ人居住区にある。ユダヤ教の聖地である。ユダヤ人国家は丘の上にエルサレム神殿を建てていた。しかし、エルサレムを支配したローマ帝国はこれを破壊。以後、ユダヤ教徒は丘の下にある壁に向かっていの売るようになった。この壁が嘆きの壁である。
シオニズムとは
シオニズム運動とは、故郷エルサレムにユダヤ人国家を再建しようとする運動である。19世紀末のヨーロッパで始まった。
パレスチナ)ユダヤ人vsアラブ人
イギリスの委任統治
パレスチナを含む中東は19世紀まで、オスマン帝国領であった。オスマン帝国が第一次世界大戦に敗戦。パレスチナはイギリスの委任統治領となった。
イギリスの植民地政策 3C政策
イギリスの帝国主義政策は、3C政策と呼ばれる。南アフリカのケープタウン、エジプトのカイロとインドのカルカッタを拠点に展開されていた。
中東での植民地政策は、エジプトとインドを通るように植民地を取っていった。エジプトから、パレスチナ、ヨルダン、イラク、イランを確保した。
バルフォア宣言とユダヤ人の移住
イギリスは、第1次世界大戦中に三枚舌外交でオスマン帝国を牽制した。
- フランス、ロシア
サイクス=ピコ協定で中東の分割を決定。 - アラブ人
フサイン=マクマホン協定でアラブ人の独立運動を支援 - ユダヤ人
バルフォア宣言で、ユダヤ人国家を建設を約束し、見返りに資金提供を受ける。
イギリスは、バルフォア宣言によってイスラエルにユダヤ人国家の建設を約束。ユダヤ系財閥のロスチャイルド家から多額の戦費を獲得した。
第一次世界大戦が集結すると、バルフォア宣言によってユダヤ人がパレスチナ入植した。その数は、9年間で10万人に及んだ。
ヨルダンの独立
ハーシム家は、ムハンマドにつながる名門である。オスマン帝国時代は、オスマン帝国によってメッカの太守になっていた。
第1次世界大戦が始まると、イギリスとフサイン=マクマホン協定を締結。オスマン帝国から独立運動を始めた。
第1次世界大戦が集結すると、長男がアラビア半島のメッカ、次男がイラク、三男がシリアで建国した。
その後、シリアがフランスの委任統治領になる。イギリスは、自国の委任統治領であったヨルダンをハーシム家に割譲。三男がイラク国王、次男がヨルダン国王になった。
長男は、サウード家によって滅亡。現在メッカはサウジアラビアにある。三男は、58年のイラク革命で退位。イラクは現在共和国である。ヨルダンは、現在も王政が続いている。
委任統治領とは?
これまで、多く出てきた委任統治領とは何でしょうか?
委任統治領は、国際連盟がイギリスなどの有力国に一定地域の統治を委任することである。
国際連盟は、第一次世界大戦終戦後の19年に成立した。委任統治領は第一次大戦の敗戦国の領土であった旧ドイツ領や旧オスマン帝国領などに設置された。委任された国は国際連盟の有力国であるイギリス、フランスや日本が多かった。
では、なぜ委任統治の仕組みが必要であったのであろうか。時代は帝国主義の時代である。国際連盟は、ウィルソンの十四か条に基づいて成立した。ここでは帝国主義を否定し民族自決を原則とした。そのため、植民地の拡大は否定した。しかし、海外領土を認めないと国内世論に納得してもらえない。その折衷案として設けられたのは委任統治であった。形式上は国際連盟の統治になっているが、事実上は植民地である。
シリア)ハーシム家 vs フランス
シリア共和国の成立
シリアは、イスラム教のスンニ派の多い地域であった。しかし、シーア派のアラウィー派やキリスト教が多いエリアもあった。
30年、これらの地域が集まって、シリア共和国を建国。フランスからの独立交渉が始まった。
セーブル条約
20年4月、セーブル条約が締結された。セーブル条約は、トルコ革命でケマル大統領が成立させたアンカラ政府と欧米諸国との講和条約であった。この条約で、中東の分割も協議された。
この会議で、シリアとレバノンはフランスの委任統治領とされた。5月、シリア議会はフランスの委任統治を拒否。ハーシム家の三男ファイサルを国王にした王国の建国を決定した。
7月、レバノンに駐屯していたフランス軍は、シリアの首都ダマスクスに侵攻。ファイサル国王の退位と委任統治の受け入れを要求。シリア議会は徹底抗戦を構えていた。一方で、ファイサル国王は、フランス軍の要求を受け入れる。フランスの委任統治を受け入れ、反発する議会を解散し、自らは国王を退位しイタリアに亡命した。
ファイサルは、その後イラク国王に就任した。
シリアは、25年に大反乱が発生。
ケマル大統領の脅威
現在、シリア共和国の北は、トルコ共和国である。このトルコ共和国は、トルコ革命によって22年に成立した。
オスマン帝国は、19年に第一次世界大戦に敗北。バルカン半島や中東の領土の大部分を失った。
このとき、ケマル氏らがオスマン帝国に対して軍事クーデターを起こす。これが、トルコ革命である。ケマル氏はトルコ東部のアンカラに臨時政府を樹立する。アンカラは、現在のトルコ共和国の首都である。
20年、ロシア革命で成立したソ連のレーニン政権と単独講和。同時に、第1次世界大戦で割譲した領土へ侵攻した。この戦争の講和条約がセーブル条約である。
22年、イスタンブールのオスマン帝国政府が滅亡。アンカラのトルコ共和国が成立した。これにより、トルコ革命は終了した。
サイクス=ピコ協定
では、シリアは戦乱状況になったのであろうか。これもイギリスの三枚舌外交の結果である。サイクス=ピコ条約では、シリアはフランスの植民地になることになっていた。一方で、フサイン=マクマホン協定では、中東にハーシム家の王国を建国する予定であった。これには当然シリアも含まれていた。
ハーシム家
ハーシム家は、メッカを支配したクライシュ族の貴族の一つである。6世紀末には、イスラム教を開いたムハンマドを排出した。
オスマン帝国時代には、メッカの太守を務めた。第1次世界大戦時代の当主は、フサイン氏である。ファイサルは、フサイン氏の三男である。