帝国主義時代の各国史

(前史)19世紀後半のヨーロッパ

ドイツ・イタリアの統一

 48年革命が終結。イタリア北西部のサルディーニャ王国がイタリアを統一。また、ドイツ東部のプロイセンが、普仏戦争に勝利して、ドイツ帝国を建国。

 これにより、西ヨーロッパな主要国がすべて誕生した。

ビスマルク外交

 ドイツの宰相ビスマルクは、70年に普仏戦争に勝利。その後は平和外交に努めた。70年代のベルリン会議や80年代のベルリン=コンゴ会議はその一例である。

 この間、ヨーロッパ国内では大きな戦争は起きていない。そのため、主要国の軍隊は植民地獲得に動いていた。80年代の急速なアフリカ分割はその一例である。

 しかし、89年にドイツ帝国でヴェルヘルム2世が即位。90年、宰相ビスマルクを罷免。これにより、ヨーロッパの平和に陰りが見え始めた。 

本章の舞台

 今回は、1890年代と1900年代のヨーロッパを見ていきます。ビスマルクの引退から第一次世界大戦までのヨーロッパ情勢を見ていきます。

帝国主義とは

第2次産業革命

第一次産業革命第二次産産業革命
18世紀後半時代19世紀後半
綿織物などの
軽工業が中心
産業鉄鋼業などの
重工業が中心
石炭と蒸気機関動力源石油と電力

 重化学工業は、莫大な資金(資本)を必要とした。そのため、資金(資本)を提供する銀行と結びついた巨大企業が誕生した。

移民

 巨大企業の誕生により、多くの中小企業が倒産した。彼らは、母国を離れ、移民として異国の地で働くようになった。移民の受け入れ先として多かったのがアメリカ合衆国であった。

帝国主義とは

 70年代、巨大企業の登場により不況が起こる。これをきっかけに、原材料の供給基地と輸出市場として植民地の重要性が認められた。

 70年代から80年代にかけては、ビスマルク外交のもとで、平和に植民地の拡大がすすめられた。その代表例が、ベルリン=コンゴ会議である。

 列強の上位は、イギリス、フランスとドイツであった。ロシアとオーストリアは国内の民族独立問題で出遅れた。工業化の遅れたイタリアはさらに出遅れた。

18世紀末のヨーロッパ

 90年代に入ると、ビスマルクが引退。ヴェルヘルム2世の親政が始まった。ドイツは、イギリス・フランスなどの列強に対し植民地の再配分を求めるようになる。

イギリス

植民地に自治を

 18世紀半ば、自由貿易政策を推し進めた。この時代は植民地不要論が出るほどであった。カナダなどの白人が多い植民ではある程度の自治を認めるようになった。インドなどの白人が少ない植民地では直接統治を行うようになった。

植民地の拡大

 70年代の不況で政策は転換された。保守党のディズレーリー首相は、スエズ運河会社の株を買収した。80年代エジプトを支配下に置いた。

 90年代、ジョセフ=チェンバレンが植民地大臣になる。1900年代に入ると、白人植民地(オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ)が自治領になった。一方で、南アフリカ戦争も勃発した。

労働党の台頭

 国内では、労働者政党が発言力を高めた。

 19世紀半ば、フェビアン協会設立。労働組合とともに労働者政党の結成の準備を行った。

 1906年、労働党結成。05年に成立した自由党内閣を支援。11年、国民保険法を制定。

 国民保険法やドイツとの建艦競争で多くの資金を必要とした。そこで、自由党内閣は、社会上層部へ税負担を求めた。これに野党保守党が反発。保守党の多い上院がこれに対抗した。自由党内閣は、11年に議会法を制定。下院の権限を強化した。これは戦後の日本国憲法にも採用。衆議院の優越がこれに当たる。 

アイルランド問題

 14年、自由党内閣はアイルランド自治法を成立。

 イギリス国教会が多い北アイルランドはこれに反発。アイルランド独立派のシン=フェイン党と対立。

 しかし、同14年6月に、第一次世界大戦が勃発。自治法の実施を延期した。

 16年、第一次世界大戦の長期化により、自治権がなかなか認められない。そのため、イースター蜂起が起こった。

フランス

経済

 70年代不況を受けて、80年代から植民地拡大を進めた。アジア(ベトナム)やアフリカ(アルジェリア)に第植民地を形成した。

 フランス革命の影響で自営農家が多く、都市化があまり進まなかった。そのため、工業化があまり進んでいなかった。一方で、自営農家の活躍で銀行の資本力が高まった。この資本力を元手に帝国主義を追求した。

外交

 70年代から80年代のビスマルク外交時代、フランスは孤立した。そのため、アジアやアフリカ方面へ積極的に投資した。

 90年代、露仏同盟が成立。ロシアへ積極的に投資した。

 00年代、英仏協商が成立。ドイツへの対抗を進めた。

政治不信

 80年代のブーランジェ事件、90年代のドレフュス事件などの共和制への攻撃が起こった。

 19世紀後半、フランスではゼネストが頻繁に起こった。05年にフランス社会党が成立。議会による改革へシフトした。

 05年、政教分離法が成立。ローマ=カトリックの影響力をなくし、共和政が安定した。この法律は現在も生きており、イスラム系移民の反発を受けている。

ドイツ

植民地の再配分

 88年、ヴェルヘルム2世が即位。

  • ロシアとの再保障条約の更新を拒否
  • 社会主義者鎮圧法を廃止
  • 90年にビスマルク首相を引退させる。
  • 海軍を増強。イギリスと建艦競争が始まる。
  • パン=ゲルマン主義と世界政策

社会民主党の台頭

 90年、社会主義者鎮圧法が廃止。社会民主党が躍進した。この頃になると、暴力による革命から議会による改革へシフトした。

 そして、社会民主党は12年に帝国主義第1党になった。

ロシア

露仏同盟

 90年、ドイツが再保障条約の更新を拒否。露仏同盟が成立した。

 これにより、フランス資本がロシアへ流入。工業化が一気に進んだ。

 工場や銀行の多くは外国資本で、労働条件は劣悪であった。また、国内市場の狭いロシアは、アジアやバルカンへの進出を図った。

レーニン

 農奴解放令後のロシア農村では、農奴が地主への従属が続いていた。そのため、農民運動が各地で起こった。都市部では、都市労働者が外国資本の工場で劣悪な労働環境で働かされていた。そのため、ストライキが頻発した。

 知識人や社会主義者もこの波に乗り始めた。ナロードニキに失敗した知識人は社会革命党を結成。また、マルクス主義を掲げるロシア社会民主労働党が結成。しかし、すぐに分裂。レーニンらのボリシェビキ(多数派)とプレハーノフらのメンシェヴィキ(少数派)に分かれた。また、自由主義者も国会開設を期待して、立憲民主党につながる運動をおこした。

日露戦争と血の日曜日事件

 04年、日露戦争が勃発。翌05年、血の日曜日事件が発生。農民蜂起、労働者のストライキ、民族運動が全国各地で起こった。これにより、日露戦争は講和。ポーツマス条約が締結された。

 モスクワでは、労働者の自治組織(ソヴィエト)が武装蜂起。海軍でも反乱がおきた。(第1次ロシア革命)。皇帝ニコライ2世は十月宣言を発表。国会(ドゥ―マ)の開設を約束。自由主義者のウィッテを首相に登用した。

 革命運動が鎮まると、再び専制的な政治を開始した。

ストルイピンの反動政治

 06年、ストルイピンが首相に就任。ミール(農村共同体)を解体し、独立自営農を増やそうとした。しかし、失敗した。

アメリカ

革新主義

 19世紀末、アメリカは世界第一位の工業国になった。

 巨大企業によって自由競争は低下。移民の流入によって品行ン問題が顕在化した。

 独占の規制や労働条件の改善などの革新主義と呼ばれた諸改革が実施された。

米西戦争

 90年代、フロンティが消滅。外国への進出を目指す帝国主義政策をもめる声が高まった。

 96年、共和党マッキンリー大統領が当選。キューバの独立運動をきっかけに、98年アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が始まった。

 アメリカは、スペインに勝利。キューバを独立させるとともに、フィリピンなどの太平洋・カリブ海のスペイン植民地を獲得した。

 さらに、キューバに「プラット条項」を押し付けて保護国にした。

 同じ頃、清王朝が日清戦争に敗北。中国分割が始まる。アメリカは米西戦争の影響でアメリカは中国分割に出遅れた。99年、ジョン=ヘイの門戸開放政策を提唱した。出遅れた中国市場に参入するためである。

こん棒外交

 01年、マッキンリー大統領が暗殺。Th=ルーズベルト大統領が誕生した。Th=ローズヴェルト大統領は、中米(カリブ海諸国)に武力介入を行なった。パナマ運河の建設が始まったのもこの時代である。

 09年、タフト大統領の時代には、中米や中国へ積極的な投資が行われた。(ドル外交)

民主党ウィルソン大統領

 12年の大統領選挙で政権交代が起こる。民主党のウィルソン大統領が誕生した。

 内政では、「新しい自由」を掲げる。反トラスト法の強化。関税の引き下げ。労働者保護に関する法律の制定を進めた。

 外交では、道義的優位性を説く「宣教師外交」を展開。一方で、内戦状態のメキシコに武力介入。14年に完成したパナマ運河の管理権を握る。その14年に、ヨーロッパでは第1次世界大戦が勃発する。 

国際組織

社会主義

76年、第一次インターナショナル解散

89年、第二次インターナショナル結成。合法化されたばかりのドイツ社会民主党を中心に、フランス社会党やイギリス労働党が参加した。マルクス主義者が中心でアナーキスト(無政府主義者)は排除された。

12年、バーゼル臨時大会。戦争反対と戦争発生時の革命行動を決議。しかし、植民地支配の可否問題で分れる傾向になる。

14年、第一次世界大戦が勃発。第二次インターナショナルは解散。

ハーグ万国平和会議

ロシア皇帝ニコライ2世の提唱で発足。

99年、第1回が開催。国際仲裁裁判所を設置。しかし、実効性はなかった。

07年、第2回を開催。韓国皇帝ハーグ密使事件。

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