16世紀後半のトルコ・ギリシャ オスマン帝国、スペイン無敵艦隊に敗北

スレイマン1世の全盛期

 16世紀半ば、オスマン帝国は最盛期を迎えていた。スレイマン1世の全盛期である。陸では、バルカン半島を手中に収め、第1回ウィーン包囲を行った。海では、プレヴェザの海戦で地中海を制圧していた。また、東のサファヴィー朝ペルシアからバグダード(イラク)を奪っていた。

フランスとの同盟

 16世紀、陸上では東欧ハンガリーをめぐり、神聖ローマ帝国と争っていた。海上(地中海では、スペインと海上戦を展開していた。この2つの国は同じ国王が治めていた。これがハプスブルク家のカール5世である。16世紀前半はこのカール5世がヨーロッパの大部分を治めていた。
 この時、このカール5世と戦っていた勢力があった。フランスのフランソワ1世である。オスマン帝国は、フランスと同盟を結び、フランス商人を保護した。
 しかし、16世紀後半になると、フランスは内乱状態に入る。ユグノー戦争である。

カピチュレーション

 セリム2世は、フランスとの関係をより深めた。そして、フランス商人に特権を与えた。これがカピチュレーションである。例としては、フランス商人の犯罪は、フランスから派遣されたフランス人領事が裁くというものである。これを領事裁判権という。これは日米修好通商条約にもある条項である。

スペイン無敵艦隊に敗れる

6世紀後半、フィリペ2世の治世である。神聖ローマ帝国との同君連合は解消された。それでも、当時のスペインは、南イタリアやオランドを支配していた。フェリペ1世は、イングランドのメアリ1世と結婚。フランスとのイタリア戦争にも勝利した。スペインイケイケの時代であった。このスペインの繁栄を支えたのは、新大陸(ポトシ銀山)からもたらされる大量の銀であった。さらに、スペインに朗報が届いた。強的であったフランスの内乱が発生した。ユグノー戦争である。

 このイケイケのスペインが、オスマン帝国へ侵攻してきたのである。レヴァントの海戦である。スペインは、16世紀前半に行われたプレヴェザの海戦でオスマン帝国に大敗。地中海の制海権を失った。レヴァントの海戦はそのリベンジマッチである。スペインはレヴァントの海戦に勝利、リベンジを達成した。これにより、スペイン海軍は無敵艦隊と呼ばれるようになった。しかし、オスマン帝国は地中海の制海権は保持し続けていた。  

 この後、婚姻関係によりポルトガルを併合。当時のポルトガルは、中国のマカオやインドのゴアなどアジア各地に拠点を持っていた。また、スペイン自体もフィリピンの植民地化に成功。新大陸とアジアの交易路を確保した。これにより、スペインはアジアから新大陸(アメリカ)までの一大交易ネットワークを構築した。

サファヴィー朝ペルシャの台頭

 フェリペ1世の栄光も長くはなかった。イングランドでエリザベス女王が台頭すると、新興地主層やカルヴァン派が台頭した。オランダ独立戦争が勃発すると、オランダを支援。アルマダの海戦でスペイン海軍(無敵艦隊)を破った。

 イングランドとオランダは、アルマダの海戦に勝利するとアジア進出に向かった。この時、パートナーに迎えたのがサファヴィー朝ペルシアであった。サファヴィー朝ペルシアはイングランドやオランダの支援によって軍隊の近代化に成功。17世紀、このサファヴィー朝ペルシアがオスマン帝国に牙をむくことになる。

 オスマン帝国も、アルマダ開戦に勝利したエリザベス1世に接近した。このころ、同盟国のフランスではユグノー戦争が勃発。新たな同盟国を求め始めた。そこに入り込んだのがイギリスである。80年、オスマン帝国は、イギリスに対してフランス商人と同等な商人特権を与えた。カピチュレーションである。

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