80年代、日本が大日本帝国憲法を制定した。ヨーロッパではビスマルク外交による平和が保たれる一方で、アフリカ分割が急速に進んだ。
そのころ、オスマン帝国では、70年代の露土戦争の敗戦でバルカン半島の大部分を失った。一方で、70年代の初頭にミドハトが失脚。スルタンのアブデュル=ハミト2世の専制政治が行われていた。
90年代のオスマン帝国
90年代、ヨーロッパの外交関係は大きく変わった。ビスマルクの引退である。これにより、ヨーロッパは、3つの陣営に集約されていった。ドイツ陣営、フランス・ロシア陣営(露仏同盟)、イギリス陣営である。
オスマン帝国は、ドイツ陣営に接近していった。そして登場したのが3B政策である。ベルリンからペルシャ湾(インド洋)を鉄道でつないでドイツの工業製品をアジア各地へ販売しようとする政策である。
80年代のヨーロッパ
80年代のヨーロッパは、ビスマルク外交によって平和な時代が続いた。一方で、70年代の不況によって帝国主義政策が本格化していた。この時代、注目されたのがアフリカ大陸であった。85年のベルリン=コンゴ会議が開かれると急速にアフリカ分割が進んだ。
アブデュル=ハミト2世の専制政治
70年代、ミドハトがミドハト憲法を制定。立憲君主制への移行を試みた。しかし、アブデュル=ハミト2世は憲法を停止。ミドハトを失脚させ、スルタンの専制政治が行われた。
しかし、西洋化政策は引き続き行われた。この時期の西洋化政策の特徴は、後述のオリエント急行である。
これは、19世紀前半のイギリスとフランスを比較して、イギリス型の政治スタイルをとろうとしたためである。立憲君主制を選択したイギリスは、革命の影響は大きくなくこの時代、大帝国になった。一方、フランスは、19世紀前半に革命が頻発。多くの血を流した。
これは、19世後半から20世紀初頭の日本とトルコの関係につながる。立憲君主制へ移行できなかったトルコは、青年トルコ革命、トルコ革命と革命が頻発。ついにはオスマン帝国は滅亡し、トルコ共和国へとなった。一方で日本は、80年代に大日本帝国憲法を制定。無理をして立憲君主制を維持した。その結果、日露戦争、第一次世界単線に勝利。国際連盟では常任理事国となる国へと変貌した。
この結果は、どこから来たのだろうか。憲法制定への時間の掛け方かもしれない。ミドハト憲法は、70年代に制定された。一方、大日本帝国憲法は10年もの時間をかけて80年代に制定された。日本は、この期間にミドハト憲法の停止も見ている。このことも配慮して憲法を制定している。
露土戦争で失ったもの残ったもの
オスマン帝国は70年代の露土戦争でバルカン半島の大部分を失った。バルカン半島北部のルーマニア、セルビア、モンテネグロはこの時独立を果たした。バルカン半島東部のブルガリアはオスマン帝国から自治権を得た。
一方で、バルカン半島南部のアルバニアとマケドニアは一時ブルガリア領になったが、ベルリン会議でオスマン帝国領として残った。この残されたアルバニアとマケドニアをめぐり1910年代2度にわたるバルカン戦争が行われ、これが第一次世界大戦につながる。
オリエント急行開通
この時代、フランスのパリとオスマン帝国のコンスタンティノープル(イスタンブール)を結ぶオリエント急行が開通した。オリエント急行はフランスのパリとオスマン帝国のイスタンブールを6日間で結んだ。
コメント
[…] フランスは、フランス革命で小作人が大幅に減った。そのため都市労働者がそれほど多くない。そのため、工業化はあまり進まなかった。一方で、中産階級が多く、銀行の資本力が強い。このころ、エッフェル塔が完成した。また、パリとイスタンブール(オスマン帝国)を結ぶオリエント急行もこの時開業した。 […]