1880年代のイギリス アフリカ分割とグラッドストン首相

 1880年代、日本は明治時代。国会が開設されたころである。このころ、日本ではノルマントン号事件が発生。イギリスと領事裁判権をめぐる交渉がこのころから始まった。

 この時期、帝国主義の舞台はアフリカに移った。アフリカ=コンゴ会議によってアフリカ分割は加速した。イギリスは、自由党と保守党の2大政党制が続いていた。しかし、アイルランド問題で自由党が分裂。これを機に自由党は徐々に衰退に向かっていく。

ソーズベリー保守党内閣

自由党と保守党

 当時のイギリスは議会制度がすでに確立していた。憲法で規定ししないものの、首相は総選挙で勝った政党の党首が行った。イギリスは、自由党と保守党の2大政党制が確立していた。

 保守党は支持基盤は貴族や地主である。農家が多いので安いヨーロッパの農産物が入るのは嫌った。そのため、保護貿易政策をとった。そのため、外交面では強硬外交を進めた。アイルランドの地主が多いのでアイルランド自治には反対した。

 自由党は、支持基盤は産業資本家である。都市の人々世界中に工業製品を輸出した井ので自由貿易を主としていた。そのため外交面では平和外交を進めた。アイルランド問題では独立を認める方向で進めていた。

ドイツ、アメリカの台頭

 ドイツ、アメリカの安い工業製品の流入により、イギリスで恐慌が起きた。90年代に入るとビスマルクが失脚。ドイツはさらに工業製品の輸出を進め、植民地獲得のため建艦競争を挑んできた。これにより、保守党は支持を失い92年の総選挙でグラッドストン自由党に敗北、退陣した。

ビスマルク外交による平和

 ソールズベリー首相は、グラッドストン首相が作った孤立外交から脱却しようとした。そのパートナーに選んだのがビスマルクドイツ帝国であった。

 このころ、ビスマルクは危機的な状況を迎えていた。バルカン問題でオーストリアとロシアが対立。三帝同盟が崩壊していた。ビスマルクは、ロシアと再保障条約を締結した。一方でオーストリアとは、イタリアとともに三国同盟を締結した。

 87年2月、ビスマルクを通じて、イギリスはイタリアと地中海協定を締結した。イタリアが三国同盟や地中海協定に参加したのはアフリカ問題であった。このころ、フランスとイタリアはチュニジアをめぐって対立していた。そのため、反フランスの強直相手を求めていたのである。

植民地政策3C政策

80年代のイギリスの植民地政策

 イギリスの植民地政策は3C政策である。1870年代に併合したイギリス(コルカタ)、同じく1870年代にスエズ運河を買収したエジプト(カイロ)、1810年代のウィーン会議で獲得した南アフリカ(ケープタウン)である。

ミャンマー併合(東南アジア)

イギリス領インドは、第3次ビルマ戦争でコンバウン朝ミャンマーを滅亡。ミャンマーを併合した。

 これにより東南アジアは、西側(インド側)がイギリス、東側(中国側)がフランスの植民地となり、タイを緩衝地帯に分割された。

ロシアとの和解(アフガン王国)

 アフガン王国は、中央アジアにある国である。当時アフガニスタンはイギリス領インドの保護国であった。80年代半ば、中央アジアに進出したロシア帝国がアフガン王国へ干渉を始めた。この問題は、ドイツ帝国宰相ビスマルクの仲介でこの問題は解決した。

南アフリカで金鉱山を発見

 南アフリカは、ヨーロッパとアジアを結ぶ重要な拠点であった。しかし、70年代のスエズ運河買収でその役割はスエズ運河(エジプト)に奪われた。

 80年代半ば、南アフリカで金鉱山が発見される。90年代に入るとイギリスは内陸部のブーア人を攻撃するようになる。ブーア戦争の始まりである。

反グラッドストン連立内閣

 70年に成立したアイルランド土地法は、イギリス地主に有利過ぎた。そのため、81年にアイルランド土地法を改正した。これによりアイルランドの自作農は増えた。しかし、アイルランド自治権を求める運動は続いた。

 第三次選挙法改正で、小作農の参政権が大幅に増加した。とくに、小作農の多いアイルランド人が多数選挙権を獲得した。このため、アイルランド国民党が大きく議席を伸ばした。

 グラッドストンは、アイルランド人を味方につけるため、アイルランド自治法案を提出した。しかし、自由党ジョセフ=チェンバレンらは反発。アイルランド自治法は否決された。

 ジョセフ=チェンバレンらは自由党を離党し、自由統一党を結成した。86年総選挙でグラッドストン自由党は敗北。グラッドストン首相は退陣した。これ以降、自由党は衰退してい

ソールズベリー保守党は、ジョセフ=チェンバレン自由統一党(アイルランド問題で自由党を離脱し他グループ)と連立内閣を結成した。

グラッドストン首相の植民地政策

エジプトとアフリカ分割

フランスからエジプトを奪う

 70年代、イギリスはスエズ運河を買収。ベルリン会議で東地中海のキプロス島を領有。エジプト進出の足がかりが築かれた。

 エジプトでは、まだトルコ人が優遇され、アラビア人は冷遇されていた。そのため、アラビア系将校がクーデターを起こした。イギリスフランス両軍は邦人保護のためエジプトへ艦隊を派遣した。エジプトの暴動がイギリスに伝わイギリス世論は開戦に向かっていた。しかし、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国はエジプト出兵に消極的であった。そのため、イギリスはエジプトへ単独出兵する形になった。これにより、エジプトは英仏共同統治からイギリスの単独統治となった。

スーダンの反乱(エジプト)

 スーダンは、エジプトの南にある国である。エジプト反乱を鎮圧後、スーダンでも反乱が発生した。グラッドストン首相は、イギリス軍に撤兵を命じた。しかし、現地で指揮していたゴードン将軍はこれを無視、スーダンへ出兵した。イギリス世論はゴードン将軍の弔い合戦をもとめた。グラッドストン首相もこれに応じスーダンへ派兵した。

ブーア人に自治権(南アフリカ)

 ブーア人は、オランダ植民地時代に移住したオランダ系移民を指す。南アフリカ内陸部でブーア人(オランダ系移民)が反乱。イギリス軍はこれに敗北。内陸部のブーア人に自治権を与えた。

ベルリン=コンゴ会議

 84年、ベルギーのコンゴ支配をどうするかの議論になった。これについて、ヨーロッパで協議することになった。しかしその背景は、イギリスのエジプト支配に対するフランスの反発である。この仲介を図るための会議である。仲介役を務めたのがドイツのビスマルクである。

 これにより、ベルギーのコンゴ支配は認められた。また、アフリカの植民地化のルールも決定された。この会議をもとにアフリカ分割は瞬く間に進んだ。

各国のアフリカ植民地政策

 イギリスは、エジプト、スーダン南アフリカをすでに植民地としていた。そのため、エジプトとアフリカを結ぶアフリカ縦断政策を進めた。
 アフリカ東部のケニア、ナイジェリア、ガーナなどを進めた。
 一方フランスは、対岸のアルジェリアに拠点を求めた。そのため、アルジェリアからサハラ砂漠を通じてインド洋に向かうアフリカ横断政策を進めた。アルジェリア付近のチュニジア、モロッコ、サハラ(西アフリカ)、ギニアと東アフリカのマダガスカル島に拠点を置いた。
 これ以外に、ドイツはカメルーンなど、イタリアは、リビアソマリランドを植民地化した。

インドとオーストラリア

太平洋、ニューギニア分割

 太平洋において、イギリスは南東部のオーストラリア、ニュージーランドを植民地にしていた。そのため太平洋のイギリス植民身は南東部に集中している。

 オーストラリアの北にニューギニア島が存在する。この島の分割が決定された。西半分は、オランダ、東半分は、北がドイツ、南がイギリスである。この島は現在でも分割されており、東半分はインドネシアに、西半分はパプアニューギニアとなった。

インド、アフガニスタン保護国化

 第二次アフガン戦争に勝利。アフガンを保護国化した。しかし、アフガン王国の反乱が厳しく、併合までは至らなかった。ただし、グラッドストン首相は反戦主義者であった。そのため、第二次アフガン戦争を行ったリットン氏(満州事変のリットン報告書のリットン氏の父)を更迭した。

グラッドストン自由党内閣の内政

第3次選挙法改正

 自由党は、地主の政治力を弱めたかった。そのため、小作農などの農業の労働者や鉱山労働者に参政権を与えた。これにより男子普通選挙がほぼ実現した。

 この選挙法改正で多くのアイルランド人が選挙権を獲得した。

第2次グラッドストン自由党内閣

 保護貿易政策で保守党が分裂しているときに、総選挙が実施。自由党が勝利した。これにより保守党ディズレーリー首相は退陣。自由党グラッドストン内閣が成立した。グラッドストンの強気の政治運営はできなかった。反主流派が強かったからである。その中心がチェンバレン氏であった。

コメント

  1. […]  当時のフランスは、1830年にオスマン帝国から奪ったアルジェリアを支配していた。フランスはこの国を起点にアフリカ植民地化を進める。一方で、スエズ運河を建設したエジプトは、イギリスのスエズ運河買収で次第に影響力を失っていた。 […]

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