7世紀のロシア ビザンツ帝国から見たイスラム教の脅威

7世紀、日本は飛鳥時代中大兄皇子大化の改新を行ったころである。

 このころ、東欧のビザンツ帝国は、バルカン半島小アジアのみを支配していた。周辺には異民族がビザンツ帝国の領土を狙っていた。そして、7世紀に新たな脅威があらわれたイスラム教徒とブルガリアである。

 8世紀初頭の状況

 8世紀初頭、ビザンツ帝国は滅亡の危機に瀕していた。その理由は2つの異民族である。1つ目は、イスラム教のウマイヤ朝シリアである。もう一つは、バルカン半島を支配していたアジア系騎馬民族であるブルガリアである。今回は、この2つの外敵がどのように登場したのかを見ていきましょう。

7世紀初頭の状況 3つの異民族の脅威

 7世紀初頭、ビザンツ帝国は、東欧南部のバルカン半島小アジア(トルコ)を支配していた。しかし、多くの異民族に囲まれていた。

北(東欧)からの侵略者 南スラヴ人

 南スラヴ人とは、旧ユーゴスラヴィアの大部分の民族でセルビア人やクロアチア人などがである。
 スラヴ人は、もともと東欧のポーランドに住んでいた。6世紀ごろからはじまる第二次民族大移動で各地へ移動を始めた。南スラヴ人ビザンツ帝国領内(バルカン半島)へ移住を始めたのもこのころである。

西(イタリア)からの侵略者 ゲルマン民族(ランゴバルド族)

 バルカン半島の西、イタリアはランゴバルド族の領土であった。
 ランゴバルド族は、6世紀ユスティアヌス帝とともに東ゴード族を倒したゲルマン民族である。当初はビザンツ帝国に従っていた。しかし、ビザンツ帝国が衰退すると独立。イタリアを支配した。ラヴェンナを中心としたイタリア北東部に拠点をおき、この地域は現在、ロンバルディアと呼ばれている。
 ランゴバルド族は、8世紀中ごろ、ローマ教会と同盟を組んだフランク王国によって滅ぼされた。

東(中東)からの侵略者 ササン朝ペルシア

 ササン朝ペルシアは、ローマ帝国時代からの宿敵である。主な係争地は、黒海の東側カフカス地方(アルメニアジョージアなど)である。
 6世紀、中央アジアのエフタルを滅亡させると、再びビザンツ帝国へ侵攻した。聖地イェルサレムやエジプトまで進出した。
 しかし、10年ヘラクレイオス1世が即位すると形勢は逆転。ササン朝ペルシアの最大の都メソポタミアイラク)のクテンシフォン(バグダード周辺)を占領。シリア・エジプトを奪還した。
 なお、ヘラクレイオス1世の即位した610年から711年(レオン1世)までをヘラクレイオス朝という。

新たな敵、イスラム教の台頭

 このころ、中東のアラビア半島では新たな動きが起きた。10年ムハンマドイスラム教の布教を始めたのである。32年ムハンマドが亡くなった。このころになるとイスラム勢力はアラビア半島一帯を治めるようになる。
 ムハンマドが亡くなると、選挙でイスラム教のトップ(カリフ)を選ぶようになる。この32年~61年までの時代を正統カリフ時代という。42年ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアに大勝。ササン朝ペルシアを滅ぼした。
 この正統カリフ時代から、ビザンツ帝国との戦いが始まった。この時代にビザンツ帝国は、シリア、エジプトを失った。これら地域は小麦の生産地域であった。そのため、この地域を失うことでビザンツ帝国の衰退期が始まった。

8世紀の悩みの種 ウマイヤ朝シリアとブルガリア帝国

ウマイヤ朝シリアとは

 ウマイヤ朝シリアとは、正統カリフ時代が終了した後に成立した世界初のイスラム王朝である。都はシリアのダマスカスであった。

 61年、4代目カリフのアリーが暗殺。シリア提督ウマイヤ家のムアーウィヤが次のカリフに就任した。以後、カリフはウマイヤ家が世襲した。そのため、ウマイヤ朝と呼ばれた。
 ウマイヤ朝は、北アフリカを西へ侵攻。イベリア半島(スペイン)の西ゴード族と争うようになる。
 一方で、ビザンツ帝国への侵攻も強めた。74年には首都コンスタンチノーブルを包囲した。また、8世紀初頭に再びコンスタンチノーブル包囲を行う。

81年 ブルガリア帝国

 74年、ビザンツ帝国ウマイヤ朝が包囲されたころ、バルカン半島でも新たな敵が登場した。アジア系騎馬民族ブルガリアである。
 ブルガリアは7世紀にバルカン半島へ侵入した。アジアの騎馬民族の侵入は、4世紀のフン族に続き2回目である。
 7世紀にわたり、ブルガリアビザンツ帝国は抗争を続けた。74年のウマイヤ朝のコンスタンチノーブル包囲でビザンツ帝国が疲弊すると、81年ビザンツ皇帝はブルガリアと和平を結びブルガリア帝国を承認した。

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