1850年代の日本(幕末)ペリー来航と開国

 1850年代、日本は江戸時代末期。ペリーが浦賀に来航。日本は激動の幕末を迎える。

安政の大獄と桜田門外の変

 南紀派の大老井伊直弼は、反主流者の一橋派の処罰を行った。これを安政の大獄という。安政の大獄や日米修好通商条約の調印などは、同じ58年に行われたので安政五年の政変とも呼ばれている。

 その後、大老井伊直弼は、江戸城の桜田門の近くで殺害された。これを桜田門外の変という。江戸城近くで幕府の高官が亡くなったので、幕府のテロ対応力のなさが露呈した。このことが二度と繰り返されたにように警視庁は現在桜田門の近くに置かれている。

日米修好通商条約

 56年、クリミア戦争終結すると、イギリス・フランスは清と戦争を開始(アロー戦争)、ロシアの仲介により清はイギリス、フランスと不平等条約を締結。ロシアもこれに追随した。その影響で、58年大老井伊直弼は通商の開始と不平等条約の締結を行った。(日米修好通商条約

その後日本は、以下の5か国と国交を結んだ

 鎖国前から交易を行っていたオランダ、当時世界の覇権を握っていたイギリス、北海道をめぐって争っているロシア、そして、ナポレオン三世帝政下で海外侵略を繰り返していたフランスである。その後の日本の歴史はこれら5か国の影響を受けながら、進んでいく。

大老井伊直弼

 開国後、政策面で2つの派閥が登場した。南紀派と一橋派である。2つの派閥は、2つの政治課題で対立していた。将軍後継者問題と開国である。南紀派は、幕府の主流派で構成されていた。将軍後継者問題では後継者順位を重んじて家茂を推挙し、開国は致し方ないと考えていた。一方、一橋派は、反主流派で構成されていた。討幕の中心となる薩摩藩も一橋派を支援した。ちなみに長州藩はこのころ幕府ではほとんど発言力はなかった。後継者問題では、病弱な家茂ではなく慶喜を推挙し、開国には断固反対した。

 このような中、主流派の南紀派は、井伊直弼を大老にした。通常、江戸幕府は老中の合議制で政治を進めていた。しかし、危機が発生したときは大老を置いて大老に大きな権限を与えた。

ペリー来航

 40年代後半、アメリカ=メキシコ戦争に勝利したアメリカは太平洋岸のカリフォルニアを獲得した。48年のゴールドラッシュでカリフォルニアの人口が急増した。そのため、アメリカは太平洋の管理について重要視するようになった。

 アヘン戦争で勝利したイギリスオホーツク海まで進出したロシアが54年ヨーロッパでクリミア戦争が勃発。その影響は東アジアまで波及した。そのため、両国は日本の開港を必要としていた。また、一方で、太平洋岸のカリフォルニアまで進出したアメリも太平洋に拠点を求めていた。

 この混乱期の前年(53年)、アメリカはペリーを日本に派遣。同53年、ロシアも北方の国境問題と開国交渉のため、プチャーチンを派遣した。翌54年、鎖国下の日本はアメリカと国交を樹立した。開国である。(日米和親条約

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