前回の復習 9世紀のスペイン
1810年代のスペイン。フランス皇帝ナポレオンの支配下にあった。14年にナポレオンが敗北。15年のウィーン会議でスペイン=ブルボン朝が復活。フィルディナント7世が復位。フィルディナント7世は憲法を停止。これによりスペイン立憲革命が始まる。
8世紀の国際情勢
8世紀(701−800年)、日本は奈良時代。奈良の大仏が建立された時代である。
ヨーロッパは、ナポレオン戦争の時代。
アッバース革命と後ウマイヤ朝の成立
後ウマイヤ朝
後ウマイヤ朝は、8世紀から11世紀にかけてスペインに存在したイスラム王朝である。10世紀に全盛期をむかえ、国王はカリフを自称。3カリフ時代に入った。
成立
後ウマイヤ朝は、ウマイヤ家の王朝である。
アッバース革命
ムラービト朝は、建国すると都の建設を行った。これがマラケシュである。70年頃に都マラケシュは完成した。
マラケシュは
国際都市トレドと宗教政策
ムラービト朝は、建国すると周辺地域へのスンニ派を布教するために各地へ精選(ジハード)を展開した。最初に展開したのは西アフリカの内陸部である。
アフリカは、川を中心に展開された。西アフリカでは、イスラム以前は、ニジェール川沿って発展した。
7世紀には、トンブクトゥに都を置く、ガーナ王国があった。金や岩塩の輸出で豊かになった。この輸出は支えたのが、モロッコに進出したムスリム商人たちである。
76年、ムワービト朝がガーナ王国へ侵攻。これにより、ガーナ王国は衰退。侵攻したムワービト朝もレコンキスタやノルマン人の侵攻でアフリカ内陸部の統治は疎かになり、事実上分裂状態になっていた。この状態は、13世紀にスーダンから進出したマリ王国が成立するまで続く。
イベリア半島へ侵攻
ムワッヒド朝の滅亡
92年、スペインはコロンブスによって大西洋横断航路を獲得した。しかし、航海術はポルトガルが圧倒的にあった。そのため、スペインは、ローマ教皇を通じて大西洋横断の独占を認めてもらった。これが教皇子午線である。
フランク王国がイスラム勢力を撃退
三代巡礼地サンティアゴデコンボステーラ
スペイン=ブルボン家は、現在まで続くスペイン王室である。始まりは、フランス=ブルボン家の分家で、太陽王ルイ14世の孫が始まりである。
57年、ムワッヒド朝はイベリア半島の南半分を支配した。
レオン王国
35年、アラゴン王国が成立
76年、ナバラ王国と合同
ナバラ王国
85年
トラファルガー海戦の敗北で、国王カルロス4世と宰相ゴドイは、国民の信を失っていた。都市部の自由主義者たちは新国王としてフィルディナント7世を望んだ。
バルセロナ辺境伯領
04年、ナポレオンが皇帝に即位。これに対して、イギリスを中心とした第三回対仏大同盟が結成。そのような中、スペイン船がイギリス艦隊に撃沈される。
これをきっかけに、05年10月、スペイン=フランス海軍がイギリスへ侵攻。これがトラファルガー海戦である。
スペイン=フランス連合艦隊は、イギリスに敗北。これにより、国王カルロス4世は国民の信を失い、弟フィルディナント7世のクーデターにつながる。
サラゴサ条約
ゴドイ氏は、カルロス4世の寵愛を受けてスペイン宰相になった。しかし、イギリスに大敗したことで失脚していた。
99年、フランスでナポレオン政権が成立。ゴドイ氏はナポレオンを頼って、00年、宰相に復帰した。その時に使われたのがポルトガルの分割であった。
02年、アミアンの和約が成立。ヨーロッパにつかの間の平和が訪れた。
ルイジアナは、アメリカ合衆国中央部で、ミシシッピ川を中心とした大平原である。
ミシシッピ川の東側は、アメリカ独立戦争でアメリカ領に担っていた。
問題は、ミシシッピ川の西側(ルイジアナ西部)である。七年戦争でスペイン領とされていた。00年、スペインはフランスにルイジアナ西部を譲渡した。しかし、秘密条約でかつ、その後にゴドイ政権が成立。この条約はあやふやになった。
02年、ナポレオンはスペインから譲り受けたルイジアナ西部をアメリカ合衆国に売却。03年、スペインのゴドイ政権はルイジアナ西部の譲渡を正式に承認した。
西ゴード王国の滅亡
西ゴード王国の滅亡
01年にスペイン国王に即位したブルボン家のフェリペ5世をヨーロッパ各国は承認した。
ただし、スペインとフランスが合同しないことが条件とされた。これにより、フェリペ5世は、フランスの王位継承権を甥のルイ15世に譲った。
これにより、スペイン=ブルボン家が成立した。
西ゴード王国とは
後ウ
ポルトガル国王ジョアン
地中海と大西洋の間にはジブラルタル海峡がある。その近郊に当たる。そのため、イギリスが地中海に入るための重要な拠点である。
ミノルカ島は、アメリカ独立戦争でスペインに返還された。
一方、ジブラルタは、現在もイギリス領である。
拠点をパナマに
ユトレヒト条約で、アシエントはフランスからイギリスへ譲渡された。
アシエント権とは、スペイン王室が認めるスペイン植民地(南北アメリカ大陸など)で奴隷を販売する権利である。
イギリスは、アシエント権を利用して、大西洋三角貿易を拡大し、莫大な資金を獲得。これが18世紀から始まる産業革命につながる。
01年に、スペイン=ブルボン家が成立すると、アシエントはフランスの会社が独占した。これが13年のユトレヒト条約でイギリスに渡った。
アシエントは、スペイン語で「契約」を意味する。元々は、スペイン王室が商人と交わした借入契約が始まりである。
16世紀、スペイン王室は度重なる戦争で財政が悪化した。そのために商人から借金を行った。スペイン王室は返済の代わりに徴税権(国家の代わりに税金を集める権利)を付与した。そこで一番人気が高かったのがスペイン植民地(南北アメリカ大陸)の奴隷販売にかかる関税であった。そのため、17世紀には、アシエントは植民地での奴隷販売権を意味するようになった。
具体的には、イギリス商人(南海会社、のちにカディス黒人会社)がスペイン王室に黒人奴隷の関税を前払いする。イギリスは、アフリカで奴隷を仕入れ、大西洋を横断。スペイン植民地(メキシコ、南アメリカなど)で奴隷を販売。売却代金から、関税、仕入れ代金、輸送コストを引いたものがイギリス商人の収入担った。関税を支払っても莫大な利益が出る交易路であった。
ポルトガルとアフリカ東海岸
17世紀のイタリアは、多くの国に分割されていた。スペインもその1つであった。北イタリアのミラノ公国、中部イタリアのサルディーニャ島、南イタリアの両シチリア王国(ナポリ王国とシチリア島)である。スペインは、北イタリアの諸侯のサヴォイア家にシチリア島を割譲した。このサヴォイア家は、オーストリアとサルディーニャ島とシチリア島を交換。これにより、サヴォイア家はサルディーニャ王国になる。後のイタリア王国である。
オーストリア=ハプスブルク家との領土交渉は13年のユトレヒト条約で決裂。翌14年のラシュタット条約で解決した。
ポルトガル王国
カルロス1世
スペイン継承戦争は、スペイン王位をめぐりフランスとオーストリア(神聖ローマ皇帝)の間で行われた戦争で合う。01年に始まり、13年のユトレヒト条約で終結した。
当時のヨーロッパの戦争は全世界に飛び火した。特に戦場になったのはアメリカとインドである。
家系図
フランスとオーストリアの間で行われた戦争であるが、多くのヨーロッパの国々はオーストリア側についた。その代表国は2つである。
1カ国目は、イギリスである。イギリスは、アメリカとインドでフランスと植民地争奪戦(英仏第2次百年戦争)が行われていた。
2カ国目は、プロイセン(のちのドイツ)である。プロイセンは、プロイセンは神聖ローマ帝国内の1諸侯国である。当時、プロイセンは公国であった。神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルグ家)は、スペイン継承戦争で味方することの見返りに、プロイセンを王国に昇格させた。
スペイン継承戦争の前に、ヨーロッパ諸国が反フランスとして団結する戦争があった。88年に起きたファルツ戦争である。これにより、神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルグ家)を中心にアウクスブルク同盟が結成された。
アシエントの始まり
オーストリア=ハプスブルク家
原因は、スペイン=ハプスブルグ家の王位継承問題である。
00年、スペイン国王カルロス2世がなくなる。王位継承者になる息子も兄弟もいなかった。これにより、スペイン=ハプスブルグ家は断絶した。
スペイン国王継承者に上がったのはカルロス2世の2人の姉妹の嫁ぎであった。フランス=ブルボン家とオーストリア=ハプスブルグ家である。
この2つの家がスペイン王位を巡って起きたのがスペイン継承戦争である。
太平洋の発見
ポルトガルのアジア進出
17年、ポルトガルは明王朝の広州に到着
11年、ポルトガル、東南アジアのマラッカ占領
ポルトガルのアフリカ探検
エンコミエンダ制
南米探検
99年、スペイン、アメリゴを南米探検に派遣
00年、ポルトガルのカブラルがブラジルに到着
01年、スペイン、アメリゴの第2回南米探検。