1880年代の イタリア エチオピア遠征へ

前回の復習 1890年代のイタリア

 1890年代のイタリア。エチオピア遠征に失敗。海外進出にに力を入れていたクリスピ首相は退陣。ジョリッティ首相が登場。北部の工業化を進めていく。

 さて、1880年代のイタリアでは、エチオピア遠征へ向う背景を見ていきます。

エチオピア

地理

 エチオピアは、東アフリカの北部の国である。現在は内陸国であるが、かつては、紅海とインド洋に面していた。現在、北の紅海側には、エリトリアとジブチ、東のインド洋側には、ソマリアがある。西には、スーダンと南スーダン、南にはケニアがある。

 国土は、日本の約3倍。人口は日本よりやや少ない1億人の国である。

世界遺産(自然遺産)

 エチオピア北部には、渓谷がひろがるシミエン国立公園がある。ここには貴重な動植物が多数存在する。

 エチオピアは人類発祥の地とされ、世界最古の人類の化石が多数発見されている。

 ナイル川の水源といわれるタナ湖がある。

 コーヒーの発祥の地でもあり、エチオピア南西部には、コーヒーの語源であるカファという地名がある。そのため、エチオピアの儀式にはコーヒーは欠かさせない。

歴史

 伝承上は、紀元前10世紀に建国されたとされている。イェルサレムのソロモン王とシバの女王の子が建国したといわれている。

 現在の研究では、4世紀のアクスム王国が起源といわれている。多くのエチオピア人は、東方正教会のエチオピア正教会を信仰している。

 7世紀に、エジプトなどの周辺国がイスラム教に改宗。得エチオピアの人々はエジプトのアレキサンドリア教会や聖地エルサレム教会への巡礼ができなくなった。エチオピア東部には、イスラム教の第4の聖地、城塞都市ハラールがある。

 12世紀から13世紀にかけて、ラベリアの石窟寺院を建立した。

スエズ運河開通

 17世紀以降、都はゴンダール地方に置かれた。この地域には現在でも当時の城や聖堂を見ることができ、世界遺産に登録されている。しかし、19世紀に入ると王権は弱体化し、各地の豪族が独立国のようにふるまっていた。

 69年、スエズ運河が完成。スエズ運河の出口にあたる紅海の重要性は高まった。イギリス、フランスとイタリアはこの地域の植民地化を始めた。

アフリカ分割

80年代のヨーロッパ

 80年代は、近代から現代への転換点に当たる年である。外交面では、70年代から80年代にかけてビスマルク外交の時代で、ヨーロッパでは大きな戦争が起きていなかった。

 一方、70年代の恐慌によって、経済は停滞。国民の不満は高まっていた。その活路を見出したのがアフリカ大陸であった。ここから、ヨーロッパは帝国主義の時代へ向っていく。

ベルリン=コンゴ会議

 70年代、リヴィングストンやスタンリーらの探検によって、アフリカ内陸部の情報がヨーロッパ各国に伝えられた。

 その最中、ベルギー王国がアフリカ内陸部のコンゴの植民地化を宣言。それに対し、ヨーロッパ各国は待ったをかけた。これで始まったのが84年ベルリン=コンゴ会議である。場所は、ビスマルク宰相のお膝元、ドイツ帝国の首都ベルリンである。

 この会議で、ベルギーのコンゴの植民地化が決定。一方で、アフリカの植民地化のルールも決定された。そのため、大きな戦争もなく、ハイスピードでアフリカの分割が進んだ。

三国同盟

 三国同盟とは、イタリア、ドイツ、オーストリアで結ばれていた秘密の軍事同盟である。この同盟は82年に締結された、第一次世界大戦まで続いた。

 19世紀後半、オーストリアとイタリアの間では、未回収のイタリアという領土問題が存在していた。その中で、なぜイタリアはオーストリアと同盟を結んだのであろうか。

 まずは、ドイツ側の視点で見ていこう。原因は78年のベルリン会議にさかのぼる。ベルリン会議で、ロシアが三帝同盟から離脱。そのため、新たな味方を必要としていた。

 一方、イタリアは78年のベルリン会議で、フランスとチュニジアの領有権で対立。フランスへの復讐心に燃えていたイタリアは長年の敵国であった三国同盟への参加を決めた。

クリスピ首相

クリスピ首相

 クリスピ首相は、87年に首相に就き、96年にエチオピアでの敗戦の責任を理由に退陣した。

生い立ち

 クリスピ氏は、南イタリア出身の政治家である。

 48年革命のときに、マッツィーニの影響を受けてシチリアでの独立運動に参加。当時の南イタリアはスペイン=ブルボン家の支配を受けていた。しかし、この独立運動は失敗に終わった。

 60年、クリスピは、ガリバルディとともに再び挙兵。ついにスペイン=ブルボン家からの独立を達成する。

 イタリア王国建国後は、政治家に転身。ガリバルディとともに議員になった。

政策

 外交面では、チュニジア問題からフランスを敵視。ドイツ(三国同盟)との同盟関係を強化した。また、アフリカ進出へ積極的で、90年にエチオピアからエリトリア植民地を獲得。エチオピアが独立運動を開始すると軍隊を派遣した。

 内政面では、社会主義者へ厳しい弾圧を行った。とくにシチリア島のシチリア・ファッシへの90年代の弾圧は厳しかった。

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