スラヴ人のキリスト教改宗
セルビア人のキリスト教改宗
セルビア人は7世紀初頭にバルカン半島西部(アドリア海側)に移住したスラヴ民族である。セルビア人はこのころから東方正教会(キリスト教)を信仰するようになる。
ブルガリア人のキリスト教改宗
ブルガリア人は、カスピ海北部にいたアジア系民族である。7世紀、ビザンツ帝国を破りバルカン半島東部(黒海側)に建国した。9世紀に入るとキリスト教徒の比率が高まり、ブルガリア皇帝もキリスト教をへ改宗した。
ブルガリア教会の帰属問題
7世紀初頭の偶像崇拝問題で、コンスタンチノーブル教会とローま教会の関係は悪化した。ブルガリアがキリスト教へ改宗したのもこのころである。ブルガリアはフランク王国(ローマ=カトリック)にもビザンツ帝国(東方正教会)にも接しており、どちらのグループに入るかが問題となった。
8世紀半ば、ブルガリアで大飢饉が発生。ビザンツ帝国はブルガリアへ出兵。ブルガリアにキリスト教(東方正教会)への改宗を認めさせた。これに待ったをかけるものが現れた。ローマ教皇である。コンスタンチノーブルで定例のコンスタンチノーブル公会議時に、この件が話し合われ、ブルガリアは東方正教会になることが決定された。
8世紀末、ブルガリアが報復戦に出た。ビザンツ帝国はこれに敗北した。ブルガリアはマケドニアやアルバニアを獲得。アドリア海沿岸まで領土を獲得。10世紀の全盛期につながる。
偶像崇拝の再開
8世紀初頭の聖像禁止令は、いったん廃止されたものの再び復活した。聖像の破壊や教会の反発が原因で9世紀半ばに廃止された。この後、聖像を利用してブルガリア人やセルビア人への布教を進めた。聖像禁止令の影響でこの時期に有名な建築物や彫刻はあまり作られていない。
このころ、ビザンツ帝国ではマケドニア朝が成立した。マケドニア朝は11世紀まで続いた。当時のビザンツ帝国は軍管区制(テマ制)の影響で地方勢力が台頭していた。マケドニア朝は中央集権化の復活に動いた。中央軍を創設。大きな軍管区を分割し強い地方勢力が出ないようにした。
9世紀のトルコ民族
サーマーン朝
このころのトルコ系民族の状況はどのようであったのだろうか。
トルコ民族が多く生活する中央アジアではイラン系のイスラム教国が建国された。サーマーン朝である。サーマーン朝は、トルコ人奴隷を購入し、軍人奴隷(マムルーク)としてイスラム圏の各地に売りさばいていた。
イスラム教では、イスラム教徒は奴隷にしてはいけない。しかし、異教徒を奴隷にすることは認められていた。そのためイスラム圏の端の国は奴隷の供給基地となった。
中央アジア(ソクド地方)は交易で成り立っていた。9世紀に入ると一番のお得意様であった唐王朝が衰退。中央アジアは新たな交易相手を求めていた。それがイスラム教圏であった。中国から物資が入ってこないので、トルコ人奴隷を販売することとなった。
カラ=ハン朝
カラ=ハン朝は、9世紀に成立した中央アジアのトルコ人黒海である。ウイグル人とともに突厥を滅ぼす。
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