前回の復習 1900年代の日本
1900年代の日本は、明治時代。明治新政府の最大の目標であったロシアを日露戦争で破った。
明治時代は、1868年から1912年までの44年間である。
- 1900年代 日露戦争でロシアに勝利
- 1890年代 日清戦争で清王朝に勝利
- 1880年代 自由民権運動と大日本帝国憲法
- 1870年代 廃藩置県と西南戦争
1890年代の国際情勢
ビスマルクの引退で、ビスマルク体制が崩壊。これにより、露仏同盟が成立。ヨーロッパは、3つの陣営に別れた。大英帝国とロシアを中心とした露仏同盟、ドイツを中心とした三国同盟である。
軍事・外交)なぜ、日清戦争が起こったのか?
朝鮮半島
明治時代の日本の軍事は、日本海(ウラジオストク)に進出したロシアから独立を守ることが最大の課題であった。そのために、日本とロシアの間にある朝鮮半島を日本の勢力圏にしたかった。
一方、清王朝は冊封国の一つとして、朝鮮半島を守る必要があった。
80年代、2回軍事クーデターが発生。日本軍と清王朝軍の支援で、2つの軍事クーデターを鎮圧した。両国は、ともに戦争を回避するために、85年に天津条約を締結。両軍は朝鮮半島から撤兵した。
シベリア鉄道
90年、ドイツ宰相ビスマルクが引退。これにより、ビスマルク体制が崩壊。ロシアは、露仏同盟を締結。フランス資本がロシアに流入した。
この資金を元に、ロシアはシベリア鉄道の建設を開始した。これが完成すると、東アジアへの軍隊の派遣にか勝つ時間が大幅に短縮される。
日本は、これを警戒した。
そして、同じ警戒心を持った国があった。イギリス(大英帝国)である。当時のイギリスは、世界各地に植民地を持つ大帝国である。中央アジアなどでロシアと勢力圏争いが展開されていた。
ロシア皇太子襲撃事件
91年、黒田内閣で青木外相が就任。ロシアのシベリア鉄道建設やスーダンの反乱(マフディーの乱)の影響で、イギリスは日本に好意的になっていた。これにより、条約交渉がスムーズに進んでいた。
そのような中、日本国内でロシアの皇太子が襲撃される事件が発生した。これが大津事件である。これにより、青木外相が解任された。
領事裁判権撤廃に成功
青木外相の後任についたのは、陸奥宗光である。
青木外相の交渉のあとをついだ、陸奥外相は、日英通商航海条約を締結。領事裁判権と片務的最恵国待遇の撤廃に成功した。
陸奥外相は第2次伊藤内閣の時代である。
なお、関税自主権を回復したのは、日露戦争後の11年のことである。
軍事・外交)日清戦争
朝鮮の農民反乱 甲午農民戦争
93年、朝鮮半島で甲午農民戦争が発生。天津条約に基づき、日本軍と清王朝軍が出兵。甲午農民戦争は鎮圧された。しかし、日本軍も清王朝軍も撤兵しなかった。
マスコミと議会
日本国内では、新聞が、「戦争を始めろ」と煽っていた。議会も第2次伊藤政権に戦争を求めた。この背景には、89年の朝鮮の穀物禁輸による米価高騰があった。
第2次伊藤政権は、これに抗うことができず、94年7月、朝鮮王宮を占拠。親日政権を樹立しようとした。これにより、日清戦争が始まった。
国民軍vs傭兵部隊
日本は、徴兵令により整備された近代型の国民軍であった。一方で、清王朝は、漢人官僚が自前で組織した傭兵部隊である。この傭兵部隊のトップが、北洋艦隊の李鴻章である。
9月、軍の作戦のトップである大本営を広島に設置。明治天皇も広島に入った。陸上戦で平壌の戦いに勝利。さらに、海上戦では黄海海戦に勝利。山東半島の威海衛に拠点を置く北洋艦隊は壊滅状態になった。
11月、清王朝領の遼東半島へ侵入した。
軍事・外交)下関条約と三国干渉
講和交渉
翌95年3月、下関で講和交渉が始まる。清王朝側は、李鴻章全権大使。日本側は、伊藤博文首相と陸奥宗光外相が交渉に当たった。
ヨーロッパ諸国の介入を防ぐため、仲介役を入れなかった。
下関条約
翌4月、下関条約が締結した。
- 清王朝は、朝鮮の独立を認める。
- 清王朝は、遼東半島、台湾と澎湖諸島を日本に割譲する。
- 清王朝は、2億両(テール)の賠償金を日本政府に支払う。
- 清王朝は、日本の通商上の特権を認める。
96年、日清通商航海条約で
領事裁判権、協定関税、片務的最恵国待遇を認める。 - 清王朝は、長江流域の長沙、重慶、蘇州、杭州の開市を認める。
片務的最恵国待遇でイギリスなどにも認める。
三国干渉
下関条約締結の6日後、ロシア、フランスとドイツの在日公使が外務省を訪問。遼東半島の清王朝への返還を日本に求めた。
翌5月、日本政府は、これを受諾。11月、賠償金の増額うを条件に遼東半島の返還を行った。
この理由には、2つあった。1つ目はドイツの参加である。ロシアとフランスが返還を要求することは想定の範囲内であった。しかし、フランスと敵対関係にあったドイツが参加は想定外であった。
2つ目は、イギリスが不介入であったことである。日本は、イギリスに相談したが、受諾すべきと進められた。当時のイギリスは、3C政策でインド・エジプトに軍隊を集中させていた。そのため、日本に軍隊を送る余裕はなかった。
中国分割とロシア
清王朝は、日清戦争の戦費と賠償金で財政難にあった。これを外国からの借金(借款)に依存した。その見返りに始まったのが中国分割である。
ロシアは、中国分割で遼東半島と満洲を勢力圏にした。これにより、ロシアと朝鮮が国境を接するようになる。ロシアの脅威は更に高まった。
日本は、2方面で交渉を行った。
ロシアとの不戦条約である。
2つ目は、イギリスとの軍事同盟である。
経済)産業革命の時代
経済が近代化するために必要なもの
明治時代は、途上国から先進国へ発展していく時代である。そのために必要なものがどのように揃うかを見ていきます。
- 資本家 金持ちの存在(格差の発生)
- 銀行 お金を集めて貸し出すシステム(金融)
- 労働者 農村で生活できなくなった人が都市へ集中
- 技術(産業革命)
- 法制度(土地の所有権の明確化)
- 物価の安定
- 交通網(鉄道、海運)
株式会社設立ブーム
60年代、佐藤長期政権の時代である。岸首相(安倍首相の祖父)が安保闘争で退陣。池田首相は、所得倍増計画を発表。高度成長期と合わさって、自民党の指示は拡大した。体調不良で退陣。佐藤政権が成立した。
産業革命と2つの糸
アパレル
工業化が最初に始まるのは、アパレル(布)である。衣服は、糸の製造(紡績業)、糸から布を作る(織物業)と布から服を作る産業である。
糸の原料は、主として4つある。
- 蚕の繭(生糸・シルク)
- 綿花(綿糸・コットン)
- 羊毛(毛織物・ウール)
- 石油(化学繊維・ポリエステル)
日本では、江戸時代から生糸と綿糸が中心であった。開国すると外国産の綿布が流入。綿製品は輸入品が主流になった。一方で、生糸については、主要な輸出品となった。
紡績業(綿糸)
紡績業は、82年、大阪紡績会社によって綿糸の機械製造が始まる。しかし、大部分が国内需要分になった。日清戦争に勝利し、中国市場に多くの綿糸が輸出が可能に、90年に綿糸の生産量が輸入量を上回り、日露戦争後の97年に、輸出量が輸入量を上回った。
綿糸産業が発展した理由は、3つある。安い労働力と原料(綿花)の調達と市場の確保である。
農村では、生活が困窮する小作人が増加。多くの子女が工場で働く事になった。これが安い労働力になった。
綿花は、日本で製造ができない。そのため、輸入が必要であった。主な産地は、インド、中国とアメリカである。92年、日英同盟が成立。翌93年、イギリス領インドのボンベイとの航路が成立。インドから大量な綿花が輸入された。96年には、綿花の関税が撤廃された。
市場については、日清日露戦争に勝利することで、東アジア全域で綿糸を自由に販売できるようになった。
しかし、綿花を輸入に依存しているため、紡績業の発展によって貿易赤字は拡大した。これを埋めたのが生糸の輸出であった。
綿糸 大阪紡績会社
日本の紡績業(綿糸の製造)は、手工業が中心であった。
82年、
重工業)官営八幡製鉄所
90年代に入ると、世界的に第2次産業革命の時代に入っていく。石油や鉄鋼などの重工業が中心になる。そのため、大資本家を必要とした。そのため、企業の集中が始まっていく。これを牽引したのは、ドイツとアメリカである。
日本では、97年に日本政府は、日清戦争の賠償金によって、福岡県に八幡製鉄所を建設。ドイツの技術が使われた。
00年代に入ると、民間でも重工業への進出が始まる。
世界恐慌
ちなみに岸首相の孫は、2012年から長期政権を成立させた安倍首相である。
政治)初期議会
板垣vs大隈
1890年、第1回衆議院選挙を実施。当時の主要政党は、3つあった。当時選挙権があったのは、直接国税15円以上で全人口の1%の高額納税者のみであった。
選挙で1位になったのは、板垣派の自由党である。過半数を確保できなかった。主な支持層は、地方の農民層である。地方のうう力者たちである。
2位になったのは、大成会という政府支持政党である。
3位が、大隈派の立憲改進党(のちの進歩党)が入った。都市部のインテリ層が支持した。
反政府側の自由党と立憲改進党で過半数を確保。
第1次山縣有朋政権 第1回帝国議会
00年4月に成立。
山縣政権は、日清戦争直前で軍事費の増大とそれに伴う増税が政治課題であった。
一方、選挙権を持っていたのは、直接税15円以上の高額納税者である。彼らが求めるのは、当然減税です。帝国議会の多数派は増税の消極的であった。
大日本帝国憲法(明治憲法)では、予算が成立しなかったら、前年の予算を執行できることになっていた。しかし、第1回議会は予算が成立しないと国の機能が停止することになる。
山県首相は、自由党の一部を買収することで予算を成立させた。
第1次松方正義政権 大選挙干渉
91年5月に成立。
ロシア皇太子を襲撃した大津事件が発生。青木外相をはじめ多くの閣僚が失脚した。
蛮勇演説で解散。警察権力を使って自由民権派の議員を減らそうとしたが失敗。これを受けて退陣した。
第2次伊藤博文政権
92年8月に成立。板垣自由党を味方につけ、板垣氏を内務大臣につける。伊藤首相は、明治十四年の政変で大隈を政府から追放している。そのため、伊藤首相は、大隈進歩党ではなく板垣自由党を味方に選んだ。
板垣と伊藤は、軍拡予算を通すために2つのことを実施した。1つは、多くの元勲を閣僚に揃えた。元勲内閣である。2つ目は、和衷協同の詔である。宮廷費の削減と役人の給料の削減をするので、増税に協力してほしい旨がある。
これにより、帝国議会は軍事拡張予算を承認した。
野党の大隈派の条約改正の遅れを攻撃。これにより、自由党は議席を減らした。
その後、陸奥外相が領事裁判権の撤廃に成功。さらに、日清戦争が勃発した。
第2次松方正義政権
96年に成立。大隈進歩党と提携。大隈氏が外務大臣に入閣。
第3次伊藤博文政権
98年1月、第3次伊藤政権が成立。総選挙で伸び悩んだ板垣自由党は提携せず。超然主義内閣となった。
予算が成立すると、地租増税に向けて動き始めた。
板垣自由党と大隈進歩党は、地租増税を阻止するために合同。憲政党が成立。伊藤首相は、地租増税を断念し、6月に退陣した。
一方で、共産党などの危険勢力の台頭を防止するため、治安維持法をあわせて可決した。
隈板内閣
98年6月、初の政党内閣である大隈政権が成立した。板垣氏は内務大臣として入閣した。
ポスト争いで成立当初から、板垣派と大隈派が対立していた。
尾崎行雄文部大臣が、共和主義演説事件で辞任。後任争いで対立は最高潮に。板垣派が新「憲政党」を結成。これに対し、大隈派は、憲政本党を結成。わずか4ヶ月で崩壊した。
第2次山県有朋政権
98年11月、第2次山県政権が成立。
板垣憲政党の支援で、地租増税に成功。
隈板内閣を受けて、政党の影響力が官僚に及ばないような法律が2つ作られた。文官任用令と軍部大臣現役武官制である。
軍部大臣現役武官制とは、軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)は、現役の中将以上でなければならない。これによって、陸軍と海軍は、この法律を利用して内閣に影響を与えることが可能になった。