14世紀のオスマン帝国 オスマン帝国建国

14世紀、日本は鎌倉幕府が滅亡し、南北朝の動乱期に入った。ヨーロッパでは黒死病が流行。暗黒の時代であった。この時代にオスマン帝国が建国された。

オスマン帝国とは

 オスマン帝国とは、14世紀から20世紀初頭まで続いた大帝国である。全盛期の16世紀には、北アフリカ(アルジェリア)~イラク(バグダード)まで領土を広げていた。バルカン半島も市は下に置き、神聖ローマ帝国やイタリアにも影響を与えた。

 今回は、オスマン帝国の建国過程を見ていきます。

オスマン帝国の危機 ティムール

 ビザンツ帝国は、滅亡直前まで陥った。しかし、オスマン帝国は滅亡させることはできなかった。14世紀末に東(イラン)から強敵が登場したためである。その国はティムールである。

 1402年、オスマン帝国は、アンカラの戦いでティムールに大敗。オスマン帝国は存亡の危機を迎える。

 ティムールは、14世紀後半に中央アジアに成立した国である。もとは、モンゴル4ハン国の一つであるチャガタイハン国から成立した。ティムールは、チャガタイハン国(中央アジア)とイルハン国(中東)を征服し、インド(デリースルタン朝)やロシア(キプチャクハン国)へも侵攻した。

バルカン半島への侵攻

コンスタンチノーブル包囲

 ビザンツ帝国は、6世紀に全盛期を迎え、地中海を再統一した。しかし、14世紀に入るとコンスタンチノーブルとその周辺に限られた。

 オスマン帝国は、ニコロポリスの戦い勝利するとコンスタンチノーブル包囲を開始した。しかし、東(イラン)からティムールが侵攻。これによりコンスタンチノーブルは陥落しなかった。

西欧諸国連合軍との戦い (ニコロポリス十字軍)

 オスマン帝国のバルカン半島への侵攻は、西欧に伝わった。西欧諸国はオスマン帝国へ派遣した。その中心は、ハンガリー王ジギスムントである。ハンガリー王ジギスムントは、神聖ローマ皇帝の息子が務めていた。彼は敬虔なカトリック教徒であった。15世紀に皇帝になるとコンスタンツ公会議で教会大分裂(大シスマ)を終わらせた。

 ハンガリー王ジギスムントの呼びかけで、フランスやドイツ(神聖ローマ帝国)、イタリア(ジェノヴァ、ヴェネツィア)から王侯や貴族、騎士が集まった。これがニコロポリス十字軍である。

 このころのキリスト教は、教会大分裂(大シスマ)で混乱をしていた。そのため、ニコロポリス十字軍はまとまりがなかった。また、現地の人々は東方正教会を信仰し、第4回十字軍の影響で西欧諸国にあまり良い印象を持っていなかった。

 オスマン帝国は、シパーヒー(騎士)やイエニチェリ(歩兵)でこれに対抗し、ニコロポリス十字軍を撃退した。

 シパーヒー(騎士)は昔からのトルコ人騎士団である。オスマン皇帝から一定地域(知行地・封土)の徴税権が与えられた。子の徴税権で生活していた。一方、イエニチェリ(歩兵)は、バルカン半島などの征服地で徴兵した兵隊である。彼らは鉄砲という最新兵器を使っていた。

コソヴォの戦い

 ニコロポリス十字軍の編成のきっかけとなったのは、コソヴォの戦いであった。コソヴォの戦いは、セルビア王国などバルカン諸国がオスマン帝国に挑んだ戦いである。オスマン帝国は、この戦いに勝ち、バルカン半島を支配するようになった。

 しかし、オスマン帝国は、寛容な宗教政策をとっており、キリスト教(東方正教会)の信仰は許されていた。一方で、徴兵制がひかれた。彼らは皇帝直属の軍隊(イエニチェリ)という歩兵軍団となった。

 コソヴォの戦いの影響は、20世紀末まで続いた。600年後の1989年、ユーゴスラヴィア内のセルビアで記念式典が行われた。これに対し、イスラム教徒のアルバニアが反発。これをきっかけにユーゴスラヴィア内戦が始まった。

アドリアノーブル

 13世紀半ばにオスマン帝国はバルカン半島へ進出した。61年には、ギリシアの北にあるアドリアノーブルを征服。66年にアドリアノーブルに遷都した。15世紀半ばにビザンツ帝国を滅ぼすまで、ここがオスマン帝国の首都となった。

 アドリアノーブルは、2世紀に五賢帝の一人ハドリアヌス帝が建設した都市である。

イルハン国の滅亡

 イル=ハン国は、13世紀のモンゴル時代に建国されたモンゴル民族による中東の国である。14世紀前半に建国者フラグの血統が途絶える。このあと、イル=ハン国は群雄割拠の時代に入った。

 14世紀後半、分裂したイル=ハン国は、中央アジアのティムールに吸収された。

セルビア王国の全盛期

セルビアは、バルカン半島にある南スラブ人の国である。アドリア海に面した西側にあり、セルビア人は東方正教会(ギリシャ正教会)を信仰している。

12世紀にビザンツ帝国から独立。ビザンツ帝国の衰退とは逆に全盛期を迎えた。しかし、14世紀後半、コソヴォの戦いに敗れオスマン帝国の支配下に入った。

オスマン帝国の成立

13世紀のトルコ(小アジア)は東部が、モンゴル(イル=ハン国)が支配。西部はルーム=セルジューク朝が支配していた。ルーム=セルジューク朝は、セルジューク朝トルコの地方政権の一つである。ただ、13世紀末には弱体化し、地方の長官が独自の政治を行っていた。その一つが、オスマン帝国である。

コメント

  1. […]  15世紀に入ると、小アジアへ侵攻。アンカラの戦いでオスマン帝国に大勝した。当時、オスマン帝国は滅亡寸前のビザンツ帝国と戦っていた。これによりビザンツ帝国は15世紀半ば前延命した。 […]

  2. […]  ラテン帝国は、コンスタンチノーブルを支配すると、北方(バルカン半島)へ向った。バルカン島の北方には、アジア系騎馬民族のブルガリアがあった。ラテン帝国とブルガリアは、ギリシャの入り口アドリアノーブルで戦った。アドリアノーブルの戦いである。この戦いはブルガリアの勝利に終わった。余談だが、アドリアノープルは、14世紀にオスマン帝国の都となり、コンスタンチノーブルの前線基地となった。 […]

  3. […]  教会大分裂は、40年弱続いた。15世紀初頭、神聖ローマ皇帝ジギスムントが主導したコンスタンツ公会議で教会大分裂は解消された。ちなみにこの公会議でフスは処刑され、フス戦争が始まった。また、ジギスムントは14世紀末、コソヴォの戦いでオスマン帝国に敗れている。 […]

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