今日は、大河ドラマの最終回で本能寺の変が放映されます。これに便乗して、本能寺の変が行われたころ(1582年)の世界はどのような時代だったのでしょうか。
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このころ世界では、預言者ムハンマドが神の啓示をうけた。イスラム教の始まりである。
ヨーロッパでは、地中海を支配していたビザンツ帝国が急速に衰退。代わりに台頭してきたのがフランク王国などのゲルマン民族である。
イスラム教の成立
7世紀最大の出来事は、イスラム教の成立である。イスラム教の拡大スピードはすさまじく、7世紀中に中東全域を席巻した。イスラム帝国の拡大は、6世紀の中東の2大帝国を衰退させた。トルコのビザンツ帝国とイランのササン朝ペルシアである。
ササン朝ペルシアは、7世紀に滅亡。多くのペルシア人が東へ亡命した。唐の長安はペルシア人が多数生活し、日本の平城京(奈良)に渡ったものもいる。
10年 預言者ムハンマド、神の啓示を受ける。
22年 預言者ムハンマド、メッカを追われメディナに移住(ヒジュラ)
30年 預言者ムハンマド、メッカを征服
32年 預言者ムハンマド、亡くなる。正統カリフ時代に入る。
正統カリフ時代に、ササン朝ペルシアが滅亡
ビザンツ帝国も、シリア・エジプトを奪われる。
61年 シリア系ウマイヤ朝成立
スンナ派(ウマイヤ朝支持)VS シーア派(反ウマイヤ朝)の内紛が起こる。
これにより、イスラム帝国の拡大は一時休止する。
イスラム帝国拡大で
ビザンツ帝国はピンチ
ビザンツ帝国も、イスラム帝国の拡大により急速に衰退する。6世紀のビザンツ帝国は、ユスティアヌス帝の全盛期であった。地中海沿岸のゲルマン諸国を次々滅亡させ、地中海を再統一した。しかし、正統カリフ時代には、シリアやエジプトを失う。
16年 西ゴート王国により、スペインから撤退
26年 アヴァール人が首都コンスタンチノーブル包囲
36年 イスラム軍(正統カリフ)に敗北。シリアを奪われる。
この時シリア総督になったのがウマイヤ朝を開くウマイヤ家である。
41年 イスラム軍(正統カリフ)により、穀倉地帯エジプトを失う
74年 イスラム軍(ウマイヤ朝)、首都コンスタンチノーブル包囲
フランク王国(フランス)
王家メロヴィング家が衰退
このころ、フランスを支配していたのは、フランク王国である。6世紀にはアルプス山脈以北(ドイツ・フランス)の全域を支配していた。
フランク王国は、メロヴィング朝の時代である。しかし、分割相続で親族同士の対立が激化。フランク王家メロヴィング家は衰退していた。13年には、ロータル2世が内乱を鎮めたが、ロータル2世が亡くなるとまた対立は激化した。
代わりに台頭したのが宮宰をつとめるカロリング家であった。宮宰は、フランク王国で最高位の役職で87年には宮宰ピピンが実権を握るようになる。
キリスト教とイタリア
6世紀に西ローマ帝国が滅亡したイタリアの状況はどのようになっていたのだろうか。6世紀から7世紀にかけて様々な勢力によって分裂していた。
北イタリアは、ビザンツ帝国から独立したランゴバルド王国。中央部は、東のラヴェンナ地方にビザンツ帝国の総督領が、西のローマにはローマ教皇領があった。それ以外も分裂していた。イタリアの南、北フリカのチュニジアは、7世紀末にイスラム勢力(ウマイヤ朝)に入った。
フランク王国は8世紀にローマ教皇の要請に基づいて分裂状態のイタリアへ侵攻していく。
7世紀、日本は飛鳥時代。聖徳太子の時代から大化の改新を経て天武・持統天皇の時代である。
この頃、イギリスはアングロ=サクソン七王国の戦乱期であった。この時期にアングロサクソン人はキリスト教を信仰するようになった。
アングロ=サクソン七王国の戦乱期
8世紀はアングロ=サクソン七王国の戦乱期であった。その中で8世紀最も力を持っていたのは、北部のマーシア国であった。
アングロ=サクソン人は、5世紀にイングランドを征服。当時は国家が形成されていたなかったが、小国が乱立するようになる。6世紀に入ると7つの国へ絞られていった。この七王国をアングロ=サクソン七王国(ヘプターキー)と呼ばれるようになる。
さて、今回は、アングロ=サクソン七王国でキリスト教が布教が始まる様子を見ていきます。
7世紀のヨーロッパ
7世紀最大の出来事はイスラム教の成立である。それまで、中東はビザンツ帝国とササン朝ペルシアで分割されていた。6世紀、ビザンツ帝国はユスティアヌス帝の最盛期で、地中海の再統一を実現した。一方で、ササン朝ペルシアもホスロー1世の最盛期で、中央アジアのエフタルを滅ぼした時代である。しかし、7世紀にはいると、ササン朝ペルシアは滅亡。ビザンツ帝国も、穀倉地帯のシリア、エジプトや地中海の制海権をイスラム教徒へ奪われた。
ビザンツ皇帝レオン1世はこれに危機感を抱いた。そこで、「聖像禁止令」を出した。(ビザンツ皇帝はコンスタンチノーブル教会のトップを兼任していた。)「聖像禁止令」とは、キリスト関連の彫刻や絵画を作ることを禁止した法律である。これに独自路線を歩み始めたローマ教皇は反発した。なぜなら、当時のローマ教会の最大のミッションはゲルマン人への布教であったからである。ラテン語を読めないゲルマン人への布教には聖像は必要不可欠であった。この頃から、コンスタンチノーブル教会(東方正教会)とローマ教会(ローマ=カトリック)の対立は明確化してきた。
キリスト教の布教伝来
カンタベリー大聖堂
6世紀末、ローマ教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン人への布教を積極的に進めた。イングランドへ修道士が派遣された。彼らはイギリス南東部のカンタベリーに拠点を置いた。現在、ここにはカンタベリー大聖堂がある。修道士たちは南部のジュート人やサクソン人から布教を開始した。
ちなみに、新興宗教の流行は戦乱期によく起こる。イングランドのキリスト教伝来もアングロ=サクソン七王国の戦乱期に発生している。日本のカトリック伝来も16世紀の戦国時代に広まったし、中国の仏教伝来も、4世紀の五胡十六国時代に広まった。
アイルランドとイングランドの宗教対立
イギリスの先住民(アイルランド、ウェールズ、スコットランド)はすでにキリスト教を信仰していた。特にアイルランドには修道院を中心として教会組織が確立していた。そのため、ローマ教皇をトップとしたイングランドの教会組織としばしば衝突した。
8世紀、日本は奈良時代。ビザンツ帝国は7世紀から続くイスラム勢力の侵攻に悩まされた。8世紀半ばのアッバース革命でイスラムの侵攻が少し止まった。しかし、ランゴバルド王国やブルガリア王国の侵攻に悩まされることになる。
16世紀後半の世界 戦国時代の裏側で
おはようございます!sekaishiotakuです。本日で、「16世紀後半 戦国時代の国際情勢」は、おしまいです。今後もこちらのブログでは、同じ時代の国際比較のブログをやっていきたいと思います。このシリーズのまとめページを作りましたので、よかったら、下のリンクから飛んでみてください。
次回は、幕末編でペリー来航の1850年代をやっていこうと思いましたが、時代背景を考慮して世界大恐慌が発生した1830年代をアップしよう思います。
16世紀後半の国際情勢
明王朝と北虜南倭
16世紀後半、明王朝は中国全体をコントロールすることができなくなっていた。北方からは騎馬民族がしばしば侵入していた。また、中国南部では密貿易が横行。商人は武装化し、明王朝の役人と戦える状態になっていた。この密貿易ネットワークは、九州・沖縄なども含まれていた。大航海時代で進出したスペインなどのもこの見る貿易網に参入した。
太陽の沈まぬ国 スペイン
この時代ヨーロッパの大国は、スペインであった。スペインはフィリピンに進出。東アジア交易網に参加した。当時のスペイン国王はフィリペ2世である。
彼らは、アメリカのポトシ銀山の銀を使って陶器などの中国製品を大量に買った。これにより、中国は大量の銀を獲得した。
また、この時期にスペインは、ポルトガルを併合。スペインは、新大陸とアジアに植民地をもつ太陽の沈まぬ国となった。
織田信長と宗教改革
織田信長は、尾張(今の名古屋)の戦国大名であった。16世紀後半に京都へ進出。応仁の乱で焼け野原になっていた京都を復興させた。
織田信長は、京都へ進出すると旧勢力の排除を行った。室町幕府を滅ぼし、比叡山の焼き討ちを実施した。また、石山本願寺を屈服させた。しかし、彼は宗教自体には寛容であった。ただ、石山本願寺や比叡山は反信長勢力と結びつきがあったため世板厚の対象となった。
信長の経済政策は、楽市楽座である。当時、商人は免許制であった。しかし、信長はこの免許制をやめ自由に貿易をさせた。これにより京都を中心とした関西圏は大いに栄えた。これにより、鉄砲などの最新軍備をそろえることができ、常備軍を持つことも可能になった。
外交政策では、キリスト教(カトリック)を保護し、スペイン・ポルトガルと積極的に交流した。
豊臣秀吉と朝鮮出兵
しかし、織田信長の時代は長くは続かなかった。本能寺の変で織田信長が亡くなると、豊臣秀吉がこれを引きついだ。豊臣秀吉は、皇族や公家との関係を強化し、関白となった。関白の地位を巧みに使い、天下統一を果たした。
豊臣秀吉は、天下統一を果たすと兵農分離政策を行った。刀狩りや太閤検地を行ったのである。大名の力を示す〇万石という言葉はこの当時に一般化した。
豊臣秀吉は、外交政策を大きく転換させた。彼が九州を訪れた際、かなりの惨状を目の当たりにした。神社仏閣は破壊され、奴隷売買が横行していた。そのため、豊臣秀吉は、キリスト教を禁止した。しかし、ポルトガルとの交易は公認していた。
豊臣秀吉は、天下統一を果たすと、衰退している明王朝への侵攻を始めた。朝鮮出兵である。しかし、朝鮮出兵に参加した大名の士気が高くなく、豊臣秀吉が亡くなるとすぐに撤兵した。
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まだ、元のフォーマットが残っている個所も多くて申し訳ありません。徐々に直していきます。
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